■コラム「創造力の根っこ」VoL.11(02/28/2010)
鈴木淳平(株式会社ジェダイ代表)
氣はエネルギーであり、超越した何か?
人間の脳に最も近い人工知能がナノテクノロジーによって可能になりそうだと言う内容を「未来への提言 科学者ジェームズ・ジムゼウスキー ナノテク革命が世界を変える」(2010年1月31日NHKBS1 放送)で知りました。
ナノテクノロジーの世界的権威、ジムゼウスキーの成し遂げようとしている人工知能に必要なナノテクノロジー技術が日本の「物質・材料研究機構」(筑波)の「原子スイッチ」を利用すれば出来るのではないかと紹介されていました。
人間の脳の構造に近づけるにはフラクタル状(木の枝が何処までも複雑に入り組んだような構造、見ため海綿や糸瓜(へちま)に近いと理解)の約1000億の脳細胞組織ニューロンの結合部分であるシナプス(情報伝達するスイッチみたいな組織)に、電気信号が流れることで脳は働くようになっているとのことです。
その部分に原子スイッチを使うことでシナプスに近い動きとなり、脳のメカニズムを可能にすることが出来るという話でした。
かつて故大橋正雄が精神を病んだ子息のために「新・波動性理論」(たま書房)で脳の中を考察していくと、すべての物質には波動があると語り、病んだ精神も波動のずれや違いによって患う病気であり、波動を変えることで治癒させることが出来るのではないか、脳も、宇宙も、物理学についても、「波動」の法則が鍵ではないかという視点でまとめています。
大橋正雄は光も音も細胞組織もすべて特定の波動をもって様々に関わりあいながら万物として存在し、この宇宙すべてが出来ていると説いています。
両者の話に興味が湧くのは、シナプスに電流が流れることで脳が働く原子の流れと、波動という波・ウエーブ、周波数が、脳の中でさまざまに影響しあっていることが、私のシナプスを刺激しシンクロさせました。
それは「氣」の話であると感じるからです。
脳の中を単なる原子の電流が流れているという表現の、原子の電流を単に氣に変えて電氣としたいわけではありません。
氣は脳に対して、最も多い普通の氣と、元氣の氣である良い氣、嫌氣(いやけ)の氣である悪い氣とがあり人間としての振る舞いに影響します。
単にシナプスを流れる電流と言う表現では東洋哲学の話にはなりません。
脳の中の氣による作用を科学的に解明するには、とても難儀に思えるはずです。人工知能の精度を、より生身の人間の脳に近づけるには氣を知ることではないかと思うのです。
「神は万物をお創りになり、我々人間は神に似せて造られ、神は我々の内にも外にも居られるのです。」
この様な言い方で表現されている宗教的、言葉を思い出します。
宗教論を語るつもりはありません。神を「氣」に置き換えて表現しますと、
「氣は万物を創り、我々人間は氣に似せて造られ、氣は我々の内にも外にもあるのです。」
「人間を氣に似せて」の表現はしっくりいかないかもしれません。
氣がシナプスを流れ、氣自体に電流の原子と同じプラスマイナスに似て善と悪があり、それは流動的に変化し多くのシナプスを流れフラクタルなニューロンの中で自分に都合の良い悪巧みをすれば氣は悪に変化し、人のため世のためと良いことをしようと思えば氣は善になる、同じ氣がそれぞれ人間の脳の中で良くも悪くも、作用すると感じるのです。
氣は我々の中に入って我々人間をためしているのかもしれません。
世界のトップレベルの医者、物理学者、科学者が、それぞれの研究を極めていくと、その先に見えてくる東洋哲学を識ることになると感じ始めているはずです。
ジムゼウスキー博士が横浜の禅寺において瞑想をしている、映像が流れていました。
目を閉じた博士の脳の中には自身の研究の未来が東洋哲学に近づいていくことを氣がついたかもしれません。
電流の代わりに東洋哲学の氣が流れていると識る瞬間だったかもしれません。
創造の根っこである、独創性やイメージを湧きあがらせる氣を科学的な言葉で「シナプスに電流が流れるから」と聞くと反射的に抵抗感を感じるのは氣のせいでしょうか。
氣をもっとも効率的に取り入れる方法の答えは、万物の自然の中にありました。
博士はナノテクノロジーを利用すれば人工的に草木の複雑な組織体である光合成組織を可能にし、太陽光エネルギーを変換効率の悪い太陽光発電パネルよりも有効であると話していたのが答えになると感じました。
氣は太陽と関係があり、太陽の重要な役目である光と熱は、置き換えればひとつの氣の変化であると感じます。
光をエネルギーとして捉えるなら人間に必要な思いや希望、将来や人間の尊厳を教えてくれる氣もエネルギーであると理解出来ます。
氣は人間の道しるべを示してくれることからも、神を氣におきかえても納得がいくと感じるのです。
直感・インスピレーションのビビッときたと言う表現は電流が瞬間的に流れたと言うイメージで表現されています、氣が一氣に流れ、思いもよらぬ発想が芽ばえたと言うのと同じで、氣が力を貸してくれた瞬間であり、やる氣、その氣になったことの証ではないでしょうか。
その正しい氣の遣い方が、創造の原動力になるのだという「氣」になります。