■増子瑞穂さんの「キャスター・マッシー通信」連載 - 113(05/02/2013)
「2年目の春。3.11」
●まだ桜の蕾はかたい3月。日和山公園からみる太平洋
この春、息子が小学校に入学しました。乳歯も一本抜けました。子どもの成長はめざましい。東日本大震災から2年の、今年3月11日。仕事で宮城県石巻市に行ってきました。
地元駅を始発で出発し、東京駅の東北新幹線ホームにつくと、すでに長蛇の列。震災の日に合わせて、岩手、宮城、福島方面に向かう人が多かったのでしょう。
震災前、東京から石巻へは、東北新幹線で仙台まで、仙台から海岸線を走る在来線の仙石線で石巻まで、が一般的な経路でした。しかし震災で仙石線が被害を受け、途中、代行バスに乗らなければ石巻に辿り着けません。バスだと時間が読めないので、仙台から別の在来線を乗り継ぎ、内陸側から遠回りして、石巻に入りました。震災から2年経っても、鉄道は全面復旧していません。
午前9時過ぎ、石巻駅到着。石巻は太平洋に面した港町です。しかし、駅を出ると目の前に小高い丘があり、土地勘がないとどちらが海なのかわかりません。海に接した街、という雰囲気がないのです。それでもあの日津波は、石巻駅にも押し寄せました。信じがたいことでした。現地で仕事をしている方に案内いただき、石巻市にあるふたつの小学校を見てきました。
石巻駅の南、太平洋側にある門脇小学校。鉄筋3階建てのいわゆる小学校、という風貌の建物です。学校の南側、数百メートルのところには海。津波に対する意識が高かったのでしょう。学校に残っていた児童は、裏手にある高台の日和山公園に避難しました。子ども達が避難した後、火災が発生しました。津波で流されてきた車がぶつかり、ガソリンに引火して、校舎に燃えうつったのです。
震災の前々日に起きた地震でも高台への避難が行われ、そのことが訓練となり、スムーズな避難につながったそうです。それにしても、日和山公園への階段の急なこと。この階段をまだ6、7歳の子どもが、余震が続く雪混じりのなか登ったのかと思うと、胸が痛くなります。それでも学校にいた子ども達が、津波の襲来や火災発生の前に避難できたことは、かけがえのないことです。震災から2年、焼けこげたままの校舎を背景に、校庭では子ども達が野球の練習をしていました。
明けて、3月12日。石巻市北部を流れる北上川の河口から4キロほどのところにある大川小学校に向かいました。大川小学校は全校児童108人、1学年1クラス20人ほど、小さな学校です。鉄筋2階建て、こじんまりとした円形の教室、かくれんぼしたくなるような造り。小学校としてはめずらしいカタチの校舎です。目の前には北上川がゆったりと流れていて、子ども達にとってさぞかし楽しい小学校生活だったのだろうな、と想像できます。
あの日、津波は北上川をさかのぼり、小学校のあるこの地区を襲いました。ここで108人の児童のうち、74人が津波の犠牲になりました。いまもまだ、4人の子どもの行方がわかっていません。先生も、地域に暮らす人も、小学校に入る前の小さな子どもも、大勢亡くなりました。このことをニュースなどで目にするたびに、なぜ、早く高台へ避難しなかったのかと疑問に思っていました。航空写真などを見ると、小学校は川のすぐそばです。小学校のすぐ裏手には山もあります。門脇小学校の例が思い浮かびます。「早く、逃げればよかったのに」言うのは簡単です。
初めて、大川小学校を自分の目で見て、自分の考えの底の浅さを思い知らされました。小さい小学校ではあるけれども、この校舎を呑み込むほどの津波が来るなんて、自分に想像できただろうか。こんな急斜面の階段もない山を、子ども達に登らせようと思えただろうか。山に登っても木が倒れてくるかもしれない。揺れの恐怖、ひっきりなしに続く余震、寒さ、108人の児童に地域の人々も大勢集まっている状況。人々は校庭に集まっていたようですが、校舎以外は流され、どこが校庭だったのかもわからない状態です。
全くの部外者である私が写真を撮ることは、不謹慎になるのではないか。案内いただいた方にそう話したら、「誰かが伝えていかないと…」と口にされました。校庭(だったらしいところ)に、小さな上着のようなものが埋もれていました。
普段、校庭に子どもの上着が落ちていたら、迷わず手にするでしょう。誰のだろうかと。でも、この上着の持ち主はもういないのかもしれない。ハッと気づき、手にすることができませんでした。写真を何枚か撮りましたが、どれを見ても、実際に私が目にしたものとは違います。現実とはほど遠い。たくさんの花束が手向けられているところに立っていたら、年配の女性がお線香を分けてくれました。子ども達。どれだけ、つらくて、怖かったのだろう。手を合わせながら思いました。
大川小学校の裏山にも、門脇小学校のような高台に続く階段があったら。なんのためらいもなく、子ども達に登らせられたのではないか。多くの子どもの命が助かったのではないか。いまさらですが、考えてしまいます。
(写真、大川小学校1から4は、川側から山側へとつながっています)
石巻からの帰り。行きでは断念した仙石線で帰ることにしました。石巻から矢本までは仙石線に乗り、矢本で途中下車して、海沿いのルートは代行バスに乗り換えです。私を含め、大きな荷物を持った人が代行バスに乗り換えていました。
旅の疲れも出ていたのか、しばらくするとバスの中でウトウト。目が覚めたときに窓越しに見えたのは、外壁だけが残り、中がからっぽになった家でした。石巻から矢本までは内陸側を通るので、外見上の被害はあまり感じません。被災地は海沿いにずっと続いている。頭では理解していたはずなのに、石巻でも震災の爪痕を多く見てきたのに、心の準備もなく目の当たりにすると動揺します。2年経っても、鉄道も住宅もあの日のままのところがたくさんあるのです。海沿いの野蒜(のびる)駅や陸前大塚駅を窓越しに見て、松島海岸駅まで。ここでようやく仙石線に乗り換えて仙台へ。やはり時間も手間もかかります。今後、仙石線の海沿いの駅は、内陸へ移されるそうです。バスの中から見る太平洋は、とて も穏やかで美しい海でした。
震災から2年がたった春。小学校に入学した息子。私にとっても、小学校という新しい生活が始まり、子どもの安全について新たに色々なことが見えてきました。学校の防災態勢のこと、通学用の道路、交通事情のこと。学童保育での安全面のこと。そうそう、小学校ではいまだに災害用に、防災頭巾が使われています。都市型の震災は、上から窓ガラスや蛍光灯などが刃物となって降ってきます。もちろん頭巾の布地など貫いてしまいます。果たして、防災頭巾が役にたつのでしょうか。まずは頭を守る、という意味では防災頭巾ではなくヘルメットなのではないでしょうか。
「これまでは大丈夫だったから」「前例がないから」これらの言葉は、東日本大震災をきっかけに、全く通用しなくなりました。失われてしまった多くの子どもの達の命を、無駄にしたくはありません。「子どもの命を守ることより、大切なことはない」あらためて、そう思います。
2013年5月1日
増子瑞穂
https://twitter.com/massykachan
●門脇小学校。数百メートルのところには海
●門脇小学校。焼けこげた校舎はそのまま
●高台の日和山公園の階段
●大川小学校1、緑の橋、車の奥に北上川、右が校舎
●大川小学校2、印象的な円形の校舎
●大川小学校3、津波の勢いで倒れた渡り廊下
●大川小学校4、学校のすぐ近くに山
●大川小学校5、校庭に埋もれた小さな上着
●野蒜(のびる)駅、代行バスの停留所(バスから撮影)
●海沿いの陸前大塚駅と太平洋(バスから撮影)