■清水教授のデザインコラム/連載 - 107(09/01/2011)
魅惑の女性を独り占め・・・・
ガラーンとした館内、これまでとはなにかが違う気配だった。まさか、休館日なのではと戸惑いながらも周辺を見渡し、きらびやかな壁面に連なる絵を見ていた。
世界有数のルーブル美術館であり、中世ヨーロッパの絵画や彫刻などの膨大な作品を集めており、世界の各地から年間数百万の来館者を集めて賑わっていた。
しかし、この日、数えるほどの人がのんびりと歩き鑑賞していていた。
イーゼルを立て、絵の具類を足元に置いた初老の女性は大作の絵をまえに、のぞきこんでは手元のキヤンバスに筆をはしらせている・・・。
ふっと、ギヤラリーの奥の方に眼を移すと、見覚えのある絵が見えた。
いつもは人混みで見えるはずもない絵だから、眼を凝らしもう一度見直していた・・・。
おそらく歴史上最も有名な肖像画だろう『モナ・リザ』だった。
しかし、こんなことは初めてだろう、人影が無い!
「チヤンス!」 慌てて、『モナ・リザ』の前に突き進んでいた。
多くの来館者にとっては、なによりも目的の名画だけに、いつも二重、三重に人が群らがっていた。私も、これまでに十数回は来館し、通りすがりに眺めることはあっても、まともには鑑賞したことはなかった。
私を見つめ、ほほ笑む『モナ・リザ』・・・・・
はじめ、「ヴェールをかぶったフィレンツェの貴婦人」とも呼ばれていた、謎おおい魅惑の女性だ! のばせば手が届きそうなところから凝視し、距離を変え、角度を変えて見つめていた。
画家レオナルドによって生命をふきこまれた500年の歴史は、様々な災難にも遭遇していた。
その瞳は、ただひたすら見つめる私に、なにかを語りかけてくるようにもみえた。
私生児として生まれたレオナルドの幼少期の感受性、求めても受けることが出来なかった若い義母の愛情・・・。貧しく哀れな生母を想うと、「醜い娼婦」とも、あるいは「ほほ笑みかけてくる優しい母」、「慈愛に満ちた聖マリア」とも想像は錯綜したのではないか。
モデルを前にしても理想の女性を想い。母をそれに重ねているのだろうとも考えられる。
2度、3度と筆を重ねて描き直し、また描き重ねていたのではないのだろうか。
ダ・ビンチであれば、あるべきはずの、その下図も見つかっていないのだとか。
まだまだ、思い描く女性像に納得がいかず、想いを抱いたままで67歳の生涯を終えているのではないか・・・。
それにしても、『モナ・リザ』を見るという心構えもなく独り鑑賞するにはいささか勝手が違いすぎた。 千載一遇のチャンスにも戸惑っていたのだ!
それでも数十分余は、独りその場にはいただろうか・・・。
考えてみると、夢のようなかけがえのない時間だったと思う。もっともっと見るべきことも一杯あったのに・・・。と、いまは後悔している。
謎おおい、『モナ・リザ』について・・・・・
その絵は兎に角、写真などは誰もが1度は目にしたことがある作品だろう。
最近は、赤外線や3D技術などによる科学的な調査によって、さまざまな事実が解き明かされている。ただ見るだけでは分からなかった絵の具の質や、塗り重ねられた層や画面構成の下図なども・・・。
この、『モナ・リザ』の人物像の下にも少なくとも3種類の『モナ・リザ』らしき人物が描かれているのではないかともいわれている。
「モナ・リザ神話は1550年頃、ヴァザーリが記述したまつ毛や眉毛について詳しく述べているが、この絵にはまつ毛も眉毛も描いていないのだ・・・。彼はその絵を見たことが無いのではないか」と切り捨てる報告がある。しかし、現在、拡大された画像によって眉毛らしい痕跡があることが指摘されている。
鳥の飛翔・・・。水の流れ・・・。水滴の飛沫など・・・。そのスケッチは、高速写真で撮影した写真のように、その瞬間を正確に捉えている。観察眼の鋭さ、細緻を極めるレオナルドの肖像画に眉毛もまつ毛も描きこまれていると考えるのが極めて自然だろう。
彼の複雑な心を映し、表情に浮かべるほほ笑みの意味を読み解く試みがある。
その左右の瞳にも記号らしき文字が発見されてもいる。
はじめは、モデルの背景にあった建物が神秘的な山林に変わり、その左右が入れ替わっているのだという不思議・・・。
ダ・ビンチ コード・・・・・
依頼されたはずの肖像画を生涯手放すことがなかった。その、『モナ・リザ』のモデルが誰であるのかは研究者の中でも意見が分かれていた。ドレスが薄い透明のガーゼ布によって覆われていることが、16世紀前半のイタリアの妊婦や出産した女性のガーゼのドレスか喪服のようなもの。髪型にも薄いヴェールがかけられていることなど年代の検証を経て、いまは、ほぼ特定されているらしい。しかし、それでもなお、異論は有るらしい・・・。
『モナ・リザ』や様々な作品に託されたダビンチコードを読み解く研究はまだまだ熱く続くのだろう。
それにしても、この時代は宗教と権力者の絶対的な威光がいやがうえにも意識させられることだ。その軋轢、威光に対しての鬱積と屈辱は他の芸術家にも見られることだ。
それにしても、優れた芸術作品を後世に残していく技術に関わることだが絵の具や絵筆、溶き油など、多分、未熟な時代からの画材、その劣化退色、ひび割れ、キヤンバス板などの変形に耐える修復の技法もまた試行錯誤であり、極めて困難なことなのだろうと思われることだ・・・。
(2011/8・30 記)
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メモ:
1994年、招待を受けたスエーデン国立芸術大学訪問からの帰路、数年ぶりのパリに立ち寄った。その前年にフランスに初めて設立されたというインダストリアル系の国立大学を訪ねること、建設されたというルーブル美術館のガラスのピラミッドを見学する積りだったのだ。13世紀フイリップ・オーギュスト時代に建てられた中世の城砦がやがて美術館に。この古色蒼然とした建物にはガラスのピラミッドなどは思いもよらなかったからだ!しかし、 10年余の議論を経てイオ・ミン・ペイの提案が、グラン。ルーブル大改造計画の一環をなすものとして、広大なルーブル美術館の中央入口になっていた。
伝統や歴史に止まらず、大胆に「未来」をとりいれる意志と実行力によって『芸術と文化』を標榜する国家・フランスを目指すことに触発されてもいた・・・。
その時は美術館に入ることが出来なかった。その思いは、翌年? ロンドン、パリに散在する各種の博物館、美術館を見学する1ヶ月余の旅になった。(コラム:1『自然に学ぶ形・・・』)