■清水教授のデザインコラム/連載 - 113(3/3/2012)
復興のカタチを探るデザイン
テレビ画面にくぎづけになっていた昨年3月11日。あの日からもう1年になろうとしています・・・。地震によって異様に押し上げられた海面が堤防を乗り越え、船や車、住居の塊を浮き上がらせて流れる様には、 なにか幻覚をみているような感覚にも襲われていました。そのときの衝撃的な光景はいまも私の脳裏に残っています。
それはさらに今日までのニュース、映像などが繰り返される報道によって、東日本一帯の被災状況の拡大、想像を絶する風景の変貌にも驚かされたのです。
地震に耐えた鉄骨やコンクリートの構造体も、津波の圧倒的なエネルギーのまえではあまりにも無力だったこともショックでした。
また原発施設の破壊が世界的な問題となり、エネルギーや環境汚染をひきおこすものになり、存在自体を大きく見直す契機にもなっています。
この数百年来と言われる経験は、わたし自身の生き方について深く考え、見つめ直すものになっていました。
復興もいまは、放射能汚染の瓦礫、その処分を難しいものにしているようで、なかなかはかどらないのだとか・・・。
「一刻も早く!」という苛立ちの声が聞こえます。しかし、「安全」、「安心」を見据え、被災者の「希望」が実感される町づくりは、とにかく、急がねばならないことです。
復興のデザインを考える
復興のデザイン-豊かな町のカタチを模索することは、日本人の生き方を考えることであるのですが、また世界の人々の生き方をも変える可能性を持つものだともいいます。
先日、建築家・伊東豊雄氏が被災地復興に挑む半年間に密着したNHKのドキュメ ンタリーの放映を見ました。昨年5月、被災地・釜石の新たな構想―「千年先も希望が持てる町づくり」への参加を依頼されたもの。
昨年末に放映されたものの再放送でしたが、私には復興の、その「デザイン アプローチ」について何かと考えさせられたものでした。
釜石市は、かつては鉄の街として栄え、震災前には人口4万を割り込むほどに過疎化が進み、高齢化にも悩んでいた街です。
「戦後の焼け野原からの復興を支えたのは建築家だった。そしていまこそ建築家の真価が問われているのです」と、語る伊東氏は公共建築、商業ビルなど現在も20余のプロジェクトに取り組んでいるのだという国際的に知られた建築家です。
銀座や原宿、高円寺などを歩くときなど、氏の作品に出会っているはず。
「東北のような場所で、絆によってつくられていた社会を、また近代主義的な思想によって孤立、硬直化させていくということがいま行われようとしている。
そうではない社会があるんだ、ということを僕らがここでアピールするべきではないか・・・」と。 その決意を事務所の若いスタッフを集め話しかけてもいました。
「もう、ミニ東京は造らない・・・」とも・・・。
「自然と向かい合い、山と向かい合い、海と向かい合って暮らしてきた人たちの生活が東京のような街になってしまってはまずいだろう。東京のように近代化されてしまった人工物だけが並んでいる街ではなく、自然と一体化するそういう提案でないと。
今まで保たれてきた美しいみちのくの風景は完全に消えてしまうだろう」と語る伊東氏は自らをも顧みてのことだと語っている。
心と心をつなぐデザイン
それぞれの家。楽しく家族と過ごした日々・・・。つい先頃の思い出がつまった町の記憶・・・。
生まれた故郷、行きかった人々との絆を取り戻すことができるかを復興に期待しているようにみえる。「住みたくて、住みたくてしょうがねえんだ、ここには俺たちの何十年という思い出もある・・・」という男性の言葉は、多くの被災者の声でもあるのだろう。
しかし、「被災者から何を感じ取り、どうカタチにするかは建築の思想を変える土台であり、まちづくり全般にも通じる。どう理想的な復興ができるのか。住民と膝をつき合わせ、時に苦悩しながらも、新たなビジョンを粘り強く探り続けたことだろうと思います。
地域が持つ自然と人々の生産活動と生活の営みを満たすカタチのありかたは、この地域の新たな価値を示せるのではないか。それは決して昔に戻ることではない!」と語る伊東氏。
復興のコンセプト―新しい風景
伊東氏自身の脳裏にあるイメージはスケッチとして次第に「カタチ」をみえるものにしていました。そのシンボルとしては、「合掌造り」・・・。
誰もが知る岐阜県の白川郷・合掌造りは民家の一形態であり、急傾斜の切り妻づくりの民家の集落がイメージされる。日本の原風景として合掌造りが建築家の脳裏にひらめき復興のシンボルとして捉えたものだろう。
伊東氏は様々な意見が出される市民を前に、専門家として取敢えず一つのアイデアを提示することを約束していた。
こういう場面での一つのカタチとしての提案は、次へのステップへ進めるための切っ掛けとなるもの。
しかし、事前に意見を求められていた他の専門家(都市計画)2人は困惑していたようにみえました。
違和感は拭えないものだったのだろうと・・・。建築とその構想・・・。建築家の独りよがりになってはならないとの反省もあるのかも・・・。
市民の前に提示されたパネルと模型・・・。都市計画家、スタッフとのミーテイングで修正されたカタチが、スタッフ総がかりで模型化の徹夜作業であったのでしょう。
ボランティアとして昼夜をとはない思索する時間だったのだろうことも・・・。
模型をみる市民の反応は様々、良くも悪くも意見は百出するものでしょう。
「このイメージモデルを踏まえ、自分たちが住む街をつくりたい」と、そう答える女性。
釜石は山が海岸にせまり平地は少ないところ。どう安全な住居を確保するのか、高齢者福祉や地場産業との両立も課題でもあるのです。
大震災を経て建築家の意識が変わってきたと指摘する藤村龍至氏(東洋大学)は「まず、『プランありき』ではなく、社会のニーズを捉えて街づくりの方向性を決めていくことだ」という。
これからさらに、様々な人々が、専門家が関わり続けるのでしょうが、この地域にある理想は生活者が主体的に実現させ、継承していくことが大切なのだと思います。
(2012/3・2記)