■清水教授のデザインコラム/連載 - 140(01/11/2014)
ノーベル物理学賞受賞者は日本の青色LED研究・開発者に・・・・
このコラムを始めた2002年の10月に2回目は、「変人異能人の時代へ――余りにもドラマチックなノーベル化学賞受賞者田中耕一氏(43)(島津製作所)のしなやかでマイペースな一徹さ」を。そして、11月の3回目は「もう1人の変人―悔しさをバネに――青色発光ダイオードを発明しノーベル賞に最も近いサラリーマンと言われた中村修二氏(48)(日亜化学)の逆境に堪えた不撓不屈の強靭な精神力を」のコラムだった。一見対極と見えるお二人にも「変人」的な発明者として共通するものが多くみられることだ。日本人研究者だからということもあるが、偉大なクリエターとしての環境、生活や行動、発想などデザインのアプローチに習うものも多く興味深い」と。そう書いていたことを懐かしく読み返している。そんなコラムももう13年目・・・。
中村修二氏にとっては93年11月の研究開発の成功を公にしてから21年目になるのだろう。今回のノーベル物理学賞の受賞にはひときわ感慨深いものがあったのではないだろうか。同時受賞者は赤崎勇氏(名古屋大学教授)と、その師弟関係にある天野浩氏。赤崎、天野両氏は80年代、論文によってサファイア基板の上に結晶薄膜を成長させる道筋を示した。数年遅れて着手した中村氏は、いわば応用研究。製造装置を自ら改造した装置によって高品質の窒化ガリウム薄膜結晶による高輝度の青色LEDの大量生産技術を確立したのだ。
優秀な人材がひしめく世界の大メーカー、大学研究機関が20年余にわたってしのぎを削った青色発光ダイオードの開発競争も無名企業の一人の技術者によって終止符が打たれたのだ。
その開発競争に関わった世界の多くの人々にも、苦労し、努力した涙ぐましいドラマがあったに違いない。開発成功のニュースを聞いたある研究者は傍らにあった自らの実験材を放り投げたのだという・・・。目指した目標も失ってしまったというショックも、想像に難くないことだ。
いまは、カリフオニア大学サンタバーバラ校の教授となった中村氏の記者会見。「研究を評価してくれたことに感謝したい」と言い、「ノーベル賞をとったら、大学の講義が免除され、駐車スペースももらえるのが嬉しい、それくらいのものですよ」と、喜びのコメントも至ってクールだ。
世界最多と言われる300人余のノーベル賞受賞者をもつ米国で活動する中村氏にとってはその中の1人になってしまったのだ、と言う無念さ、思いも強いのだろう・・・。
地方企業の一人の孤独な戦い――「とにかく、職場の目は冷たく、結果が見えない研究に注ぎ込む事に、当時の常識では主流と言われた素材を敢えて避けたことにも社内の批判は強く、開発した赤色LED製品も売れない・・・。『会社の無駄めし食い、こんな田舎の零細企業が何をやっているんだ!』と罵倒され、昇進も後輩に抜かれ・・・うっ積する不満や口惜しさは闘争心に変わっていったのだ」と・・・。「開き直ってからは上司の命令も一切聞かず、電話も取らず、会議の招集も無視してひたすら研究に没頭した」と、いうのだからまさに四面楚歌だったのだろう。「ボクは自分ひとりで未知の世界に飛び出し、研究開発はすべて直感で勝負し一人で世界一の膜をつくり出した。大学は論文だけで認められるが、企業は研究成果が製品になって世の中に出ない限り意味がないのだ」とも・・・。また、全く無為、無益と思えた装置作りのための時間、溶接作業なども、実は発明に役に立っていたのだと述懐している。
「日本にも十分研究できる環境を!」と主張しながら報われず、自らが人材流失し、帰化せざるを得なかった研究者にとっては、結果の受賞を騒ぎ立てるだけの日本に一石1を投じたということだろう。「日本には、技術を持つ人がその技術を活かせる環境がない。サラリーマンになるしかない。そうではなく、ジョブズのようにスタートアップをして技術者自身が羽ばたける環境を作るべきだ」とも・・・。そんな「怒り」も動機になって、このアメリカの地で次なるLED研究を継続している。
「世間では闘争的で激しい性格というイメージもある中村氏だが、実際に接すると穏やか・・・。研究者らしく服装などには無頓着で、何時間でも考えに集中する力はすごい。考えごとに熱中してタクシーに乗って行き先を忘れてしまうことも」と研究者らしい一面も。
60年代には既に発見されていた赤や緑色。さらに青が組み合わされることによって光の3原色=昼光色となり1600万余の色彩を可能とし、その用途の可能性は爆発的に広大した。まさに省エネの本命とした世界の新たな時代をつくることになった。
(2014/11・1記)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・