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清水教授のデザインコラム/連載 - 20(1/25/2004)

- 新年に思うこと -

 日本人。日本人としての誇り・・・

 かって謙虚さや謙譲心は、私たち日本人の美徳だったのです。
いまは、あまり意識される事もないが、儒教思想や武士道に通ずるもの・・・。
「己の善を語らず」と、いう故事も極めて日本人的な意味あいを持っています。
その信念、誇り高く真っ直ぐに生きる心、その生き方が日本人でもあったのです。
だから、と言う訳でもないのでしようが・・・。
「自国を誇りに思う」ことがなさ過ぎるのでは、と思うことが昨今余りにも多いのです。
自分の意見を持たず、兎に角、斜に構え否定してみせる、自信喪失の大人社会を映したもの?
或いは、その時代の価値観を左右する評論家。マスメデアの一方的な意見、報道に洗脳されてしまったのでしょうか?
「自国を誇りに思うか」のアンケートに65パーセントの若者が「はい」と、答えています。
しかし、それでもアジア圏では最も低いものであったと言います。

また、企業人のアンケート、「大学をどう思うか」という問いには、「評価出来る」と答えたのはフィンランド、カナダ・・・という上位国に対して調査49ヶ国中の49位だったと言う。つまり、「最低・・・」という評価です。
「本当にそうなの?この日本が・・・」私には信じられないことです。
それら評価上位国が自国の次代を託す人材・エリートを育てることを大学に託しているのです。
それに対して、我が国は余りにも開かれ過ぎた、個人的、高学歴社会の大学であるという事でしょう・・・。
「目的も無く」、「大学生が何をすべきか」、「最高学府という自負心」も無く卒業しているのです。
まま、聞くことになる留学生の様に、「留学したが、何も教えてもらえなかった」という「不満」と同じものでしょう。「何か判らないが、現状を否定する」「教えてくれなかったから・・・」「分らないが、より以上を望むから・・・」、「自分には甘く他には厳しい?」そんな甘え、不満がアンケートになるのでは・・・。
勿論、少数だが先見の明を持ち、アカデミックな大学教育制度の遅れを指摘している・・・。
しかし、それらは今・・・。
夫々の大学の改革努力、教育手法など・・・。自由、過当競争のふるいに掛けて取捨選択し、淘汰している過程でもあるのです。
ただ、その判定者となるべき若者が確りとした目的意識を持って欲しいことです。我が国の次代を託すのですから・・・。
何よりも、生きる厳しさを実感していない。生きる意味や目標すら自分で考えたことも無いと言うのでは、大学に居ても、自ら学ぶという事にはならないでしょう。
また、現在が「よい」と思い、「有難い」と思うのか、「良くない」と思い、「有難くない」と思うのかの相対的な比較も出来ない・・・。
つまり、実感し、比較出来るのは彼らが知る「豊かさの中だけ」でのことになるのです。
・・・・・・・
皮肉なことだが、営々と汗した努力。「子供だけには苦労させたくない」と言う親の思い・・・。豊かさの実現は、「感謝する気持ち」を失わせ、「有難いと思う心」を忘れさせたのです。
問題なのは「生きる」こと、「学ぶ」という意味を、目標を失わせたということでしょう。
最近、多い、この種の比較、国際的なアンケートは実はそのことを示しているのです。
豊かさの中の「欲望」、「自己実現」、「何かを求める心の戸惑い」・・・。不安は不満となり、往々にして自分へでは無く、他人や大学、社会、国へと転化、変質させていくのです。
・・・・・・・
私自身や同世代の人々は、小学年のときに終戦を知ったのです。
一面の瓦礫。家や財産、思想すら失い、ボーゼン自失の状態を子供ながらに感じたものでした。
「生きる」ことを考えさせられた。お腹が空いても食べるものは無かったのです。
休みの度に缶コーヒを飲み、ボトルの水を飲む学生には想像すら出来ない事でしょう。
親は子供達の為に働いたものです。生きるために働いていたのです。
働いたお金でその日のご飯が食べられたのです。そのことが幼ない子供達にも身に染みて分ったものでした。戦後の日本には、北朝鮮や途上国のストリートチルドレンの様な生活があったのです。
人間の欲望・マズローの言う5段階。私達は、そのはじめ、人間としての「生理的な欲望」レベルを体験したことになります。
多くの高齢者と言われる年代の方々は、そこから這い上がって来た人々でも有るのです。
全てを「有難い」と思い、無我夢中で働いたものでしょう。
その一途な努力!憧れて目標にした先進欧米の踵をのみ見て走り続けたものでした。顔を上げて周辺を見渡す余裕など考えられなかったようです。
振り返って、それが自信のある生き方だった!とは言い難いのでしょう。
しかし、気が付いてみれば、GNPは世界一だったのです・・・。
未来学者ハーマンカーンに「21世紀は日本の世紀」だ、といわれても・・・。
まだまだ、貧しい生活。俄かには信じる事も出来なかったものでした。
体験したことも無いバブル期には皆有頂天になったものです。しかし、それも弾けてみると「元の木阿弥・・・」。
「自信喪失!」、「何が悪かったのか?」それもよく判らないのです・・・。何しろ無我夢中であったのですから・・・。しかし、夢ではないのです。
確信すべきは、それでもなお世界第2位の経済大国を造り上げていたという事実なのです!

そして、マズローの言う欲望の5段階を駆け上り、登りつめた最上位の「自己実現のレベル」にあるのです。
その「自己実現」とは何? 更に「その次のレベルはあるの?」
戦後の、「生きるため」という人間の欲望からの開放され、その緊張からも解き放たれた今、あなたはは何を求め、実現したいの?と、問われることになったのです。
しかし、それはあくまでも個人に課せられたものでもあるのです・・・。
「タレントに」なりたい?「Jリーグの選手?」、「工業デザイナー?」、「医者か弁護士?」・・・。
華やかで憧れの職業・・・。「なれたらいいね!・・・」
しかし、現実には、そのことを実現する強い意志力と才能、頑張る強靭な精神力を必要とするのです・・・。
そして、並外れた努力と強運も・・・。
「棚ボタ」など、絶対に有り得ないのです。
・・・・・・・
「人の生き方」、それは一朝一夕に決められることではないでしょう。
中学や高校生ぐらいから徐々に。そして、確かにそのことを考えたと言う自身の自覚が必要です・・・。
その事で深く思い悩むことも必要でしょう。自分自身と対峙する、そういう時期があって、人生は充実したものになるのです。
確かな、そこに「一生を決するような答えがある」と言うことはないでしょう。が、その事を考えたと言うことが重要なのです。
自ら分ろうとする努力が重要なのです。ただ、先延ばしにしていては、何も見えてこないし何も得られることが無いのです。
考えてみたが判らないから取り敢えずは大学で・・・と、進学するのもいいでしょう。
何も考えないで来てしまうのとは大きな開きがあります。
・・・・・・・
ある機関誌に作家・三浦朱門の「学問とは何か」が掲載されていた。
本学の教授でもあった先生には学生時代に「英語」を教えて頂いた。
その後に文化庁長官、教育審議会委員、現在は日本文化審議会会長の要職に就かれている。
「日本人を含めてアジア人は高校までの成績は素晴らしい。しかし、その後は創造性に欠け、ただの人になってしまう・・・。
教育を強制すれば結果は出る。しかし、それは詰め込みに過ぎない・・・」。「真の教育ではない」とも・・・。
そういえば最近、其処ここの大学にも「学ぶ」こと、「生きる」ことを意識させる講座が誕生しているようです。
目標が決まれば、その能率は数倍になるといわれているからでしょう。
・・・・・・・
日本民族としての誇り・・・。日本人の優秀性、教育レベルの充実と優れた科学技術など。
世界有数の貯蓄をもち、世界の多くの国を援助している・・・。
ノーベル賞に値する科学技術も多く、様々な領域の技術力は抜きん出ており世界に注目されています。
特許出願数においてアメリカについで第2位。
車については「性能、サービスなど」の総合的なアンケートでトヨタ、スバル、ホンダ、日産、、マツダ、スズキ・・・7位までを日本車が占めているのです。8位があのポルシエなのだから驚く・・・。ベンツは遥かに後ろの順位です。
これが自動車を生み出した本場ドイツでのアンケートなのだ!快挙というべきでしょう。
優れた品質の製品やデザインが世界中で高く評価され、羨望されてもいます。 
この種、わが国の優秀性の事例は枚挙にいとまないものでしょう。当然であたりまえ?さして感動することだというのでしょうか・・・。

時に世界地図(特に欧米製の地図)を広げて見て下さい・・・。
その地図の右、端っこにある・・・。赤く塗られていないので見落とさないように・・・。
豆粒のような、この「極東の小さな島国」が日本、わが祖国!
多くの人々の汗と知力によって、創造資源を無尽蔵に凝縮させた国であるのです。天然資源は無くとも、さまざまな統計値に現れる世界第2位の経済大国であるのです。
その営々とした人々のの努力を真摯に受け止め、誇らしく思つています。
昭和41年、始めてヨーロッパを旅したのですが、日本人だと分ってくれないことが多く・・・。寂しい思いをしたものでした。
まだまだ国家再建、輸出振興の過程、発展途上国と見られてもいたのです・・・。
その後、数十回の旅では徐々に、そして、はっきりと日本人であることを認めてもらえるようになったのです。

我が国を誇りに思い、胸を張る・・・。
謙虚さ、謙譲心を持って大人が成し遂げた自信を背中で見せることが必要なのだと思います。
若い世代の意欲を喚起し、夢を与えたいのです。それは今の我が国にとっては最も緊急、重要なことだと思います。
「生きる」こと、「学ぶ」動機がそこから生まれるのです。
・・・・・・・
数億年の人類史の中で最も激しい変革を遂げた20世紀。その世紀末のカウントダウンを聞きながら21世紀へ・・・。その感動は、早くも4年目になります。
時間の流れ、それは昨日から今日へと連なるものです。しかし、私にとっては、昨日とは確実に違う今日、心改まる新年なのです!
「紅白歌合戦」を聞きながら・・・、「神社仏閣に多くを願い、祈る・・・」、「木の間越しに初日の出を拝む・・・」、「恒例の箱根マラソン」も見た・・・。
非日常的な体験、より印象的で強力な年末年始の節目を!と心がけたものでした。
自分を生きるために・・・。
(2004/1・3→22日 記)









清水教授のデザインコラム/連載 - 19(12/21/2003)

「マニフエスト」って何?

「マニフエストについてどう思いますか?」
「マニフ〜ぇ・・・」、マイクを向けられた大物政治家。
「マヌフエ〜、エ!なんだ、そりゃー・・・」と、息を呑み目をむいた・・・・。
自民党と民主党、2大政党が競い、総選挙前の論戦をそこここで繰り広げていた、
つい先頃。「マニフエスト」がはじめてマスコミに登場し数日目になるのだろうか。
カタカナ語・・・。次々に生まれる新語、造語、略語・・・。
関係ない、とやり過ごす訳にはいかない時代でもある。
「意味が分からない」、「文意が分からない」、「会話にすら入ってゆけない・・・」
まして専門領域になると、それこそ「話にならない」と、言う事になる。
専門家としてはかなりのダメージを受ける。
カタカナ用語の氾濫。その使用には、「言い換える必要があるの?」、「分かり難いのでは?」などと、かなり前から社会的な批判もあった。
だが、一向に少なくなる気配はない。
・・・・・・・・
先日、偶然に開いた本に「カタカナ白書」と表題が付けられたコラムがあった。
「役所の白書の季節である。国際化を反映して外国の言葉をそのまま使う片仮名が急増してきた」、「漢字、平仮名に加えて片仮名を持つ日本語は、外国語の導入には実に好都合だ。いちいち翻訳する手間がかからない。それに、片仮名の新しい語感を好む国民性もある。しかし、それらは十分消化されているのだろうか?」(朝日新聞 '88・8・24日付)
更に88年11・26日付には「もう少し工夫の余地はありはしないか。カタカナはんらんの文章を読むたびに、そう思う。『最近の文章はカタカナだらけで意味不明』という苦情は以前からあるが、一向に減る気配はない」と。先ほど私が書いた様な文章も・・・。
勿論、読売新聞も毎年のようにこの事を取り上げ、大きく紙面を割いた特集を組んでいる。
そのカタカナ語を日本語として翻訳させる識者数名への試みもある。
・・・・・・・・
「用語」や「ことば」の意味・概念が、微妙に広がり、変化している。
人々の求める中で進化しているのだとも言える。
しかし、また<カタカナ>で表現すると・・・。途端に、新しく先端的でもあるようにも見えてくる。
だから使う・・・。そんな類のカタカナ語も少なからずある。舶来ものに弱い、我が国の特異性だろうか?
欧米や周辺学問を直輸入、自らのものとして「使う」ことも多いように見える。
新しい「コトバ」を使い、あたかも新しいものの様にも見せる・・・。
そんな紛い物も結構多いのでは・・・。
・・・・・・・・
周辺にある新聞や雑誌などから目に付いたものを任意に拾い出してみた。
サンプル、カテゴリー、ヒアリング、チヤネル、インタラクテイーブ、ニーズ、ウオンッ、シュミレーシヨン、インハウス、コンセプト、インパクト、クリアー、マーケッテング、マネージメント、データー、キヤンペーン、キーワード、フアイリング、サイン、オブジエ、シフト、プロセス、アプローチ、アイテム、アイデンテイテイ、アメニテイー、アナログ、デジタル、メディアリテラシイ、インターネット、イントラネット、インフラ、マインド、アメニテイ、グローバル、スタンデイングポジション、コラボレーシヨン、コンテンツ、シフト、システム、タスク、トレンド、ノーマラゼイション、モデル、バリアフリー、ユニバーサルデザイン、スキル、ブレーク、プレゼンテイション、ホームページ、モチベーシヨン、ブラックボックス、クリアーボックス、ロイヤリテー、ポジション、プランニング、ライフライン、レシピ、バックアップ、エンドユーザー、コストパフオーマンス、コミニティー、サステナビリテー、エコデザイン、グランドデザイン、イメージ、アクレデイテーシヨン、ソリュウシヨン、ガーデニング、ユーザービリテイー、フアジー、インターフエイス、モバイル・・・・・。
さらに団体、組織、企業名などの略、ODA,NPO,SONY、NEC,NOVA,INAX,NJK,SRA,NTT,JR,USA,IA,HIV,GUI,ID,
PD,CD・・・・。
「ウーン、これは何だったっけ!」と、「ニューロン」の隅々までも「サーチ」するのだが・・・。
当たり前のように使っている「ID」に至っては無数の意味があり、その使われている文脈から読み取るしかないものも。
しかし、こう見れば最早、生活の中に浸透し使われているものも結構多い。
それらのカタカナ語をまた、日本語に翻訳しようとするとがかえって難しいようだ。
先に行った読売による識者数人の回答も微妙に違うのだ・・・。
・・・・・・・・
ところで、「ユニバーサルデザイン」というカタカナ語も専門家の中ではいまだ、その呼称の適否が論じられている。
しかし、「モノづくり」も、「全ての人々に平等に・・・」という思想、主張は否定できない。
その共感?時代を映したコトバとして巷でもよく使われるようになった。
冒頭に上げた「マニフエスト」もまた、「政権公約と何が違う!」という声が今も聞かれる。
一層の強い意味、実行し得る「具体的な数値目標を掲げた公約」の事だとまた反論がある・・・。
しかし、「政権公約」も実行することを前提としたことであり、決して実行しなくてよいという意味ではない。
本年度の「新語・流行語大賞」、その1つとして、「何でだろー」等と並んで選ばれている。
次々に生まれるデザインと同様に、その時代を映した「コトバ」は適切であれば残る。使い続けられることにもなろう。
            (’03/12・13 記)




清水教授のデザインコラム/連載 - 18(11/15/2003)

「ラッキーストライク・デザイナー・ジュニアー賞」

 まず、はじめに栄久庵憲司氏への「ラッキ―ストライク・デザイナー・アワード賞」の授与。
この賞は、レイモンドローウイ・フアンデーシヨン・インターナシヨナルが主催し、ヨーロッパに於いて権威あるデザインアワードとして知られている。
今年の受賞者に日本を代表する工業デザイナー栄久庵憲司氏が選ばれたのだという。
授賞式は既に9月18日、ベルリンのドイツ歴史博物館で750名余の識者の参列者を得て開催されていたもの・・・。
そんな主催者・ミヒヤエル・アルホフ会長の報告、そして、受賞者ご本人の挨拶があった。
その次に、「ラッキーストライク・デザイナー・ジュニア−賞」の授与。卒業・修了制作、本年度の応募68点を対象とした審査結果によるものである。
前列には、白いリボンを付け緊張の面持ちの受賞者たち・・・。
まず、本年度新設されたという「審査委員特別賞」からの授与だった。
9名が順次呼ばれ審査委員ご本人から賞状、トロフィが手渡される。
次いで佳作賞が3名、大賞1名の順に・・・。
・・・・
その緊張から解き放されたざわめき、「カンパーイ!」の音頭で主催者、招待者が受賞者を囲み、数人ずつの人の輪が出来て話が弾む・・・。
10月18日 3回目になるラッキーストライク・ジュニア・デザイナー・アワード賞の授与式は今、最もトレンデイ−な六本木ヒルズ、森ビルの51階に設えられた会場で取り行われていた。

壁面には入賞者の作品、パネルがあり、熱心に見入る人も・・・。
他大学の顔見知りの先生方とも話を交わし、栄久庵先生には先程の受賞のお祝いを述べた。
ジュニア―賞の審査委員でもある先生、「日大、頑張ってますね!イヤーいいですョ・・・」と、お褒めのことばも戴いた。
昨年の橋本君が佳作賞。今年は遠藤暢子君、柳川穣君の2名が審査委員特別賞を得ていた。
遠藤さんは照明デザイナー「石井幹子賞」を。
「定番となっている卒業制作のテーマだけではなく、アフリカの子供へ目を向けたそのテーマに・・・」とのこと。「日本の若者も、もっと世界に目を向けて欲しい・・・」とも思いを述べられた。
私も、「全くの同感!」
実は、そんな、意味をこめて、昨年の「軽井沢セミナー」ではテーマを「アフリカの青少年のための情報・娯楽機器--ソーラーバッテリーラジオ」のデザインとしていたのだ。
柳川さんは本学大学院客員教授で武蔵野美術大学名誉教授でもある「向井周太郎賞」。「障害者のスキューバダイビングをサポートする衣服のデザイン」にと・・・。
何れも社会性を持ったテーマへのチャレンジが審査委員の評価を得ていたものだ。
・・・・

ところで、夫々の審査委員のコメントの後、マイクを向けられた受賞者の挨拶は一寸はにかみながらも、社会人として初々しく、そして自らの抱負を述べるものであった。
しかし、2、3の受賞者の挨拶に一寸、気になるものがあった。
「自分の大学では余り認めてもらえなかったのに、ここでは評価して戴いて感謝しています」。「こんな重箱の隅をつついたようなテーマでは駄目だよ・・・」と。
何れも大学では「理解されず、評価されなかったのに・・・」というもの。
そこには、「不満があリ、不信感が有る」様にも感じられた。
「自信がないままに応募しました。まさか入賞するとは・・・」と感動しきりの女性も・・・。

こんなはなし、結構多いのではないだろか。
立場は変わるが、私自身も、そう思う時があるからだ・・・。
「同じ作品でも評価は割れるもの」それがデザインだし、デザインの教育でもあるのではと考えている。
それ程に評価する視点は多く、また、評価の条件が異なるものでもあるのだ。
まして、「課題のテーマ」についての解答は無数に有ると、考えるべきでもある。

直接指導する教師にとっては、その本人の資質、将来を見据え、足りない部分をアドバイスする。
学生の立場にたてば、「自分のアイデアを否定される」、「分ってくれない」という無念さ、それも分からないではないのだが・・・。
ひらめいた時、アイデアと言うものは、「これだッ!」と思い込んでしまうもの。
自信満々の、その「アイデア」が「駄目だ」と言われる・・・。
しかし、実はその「アイデアがより良いものか」どうかは、「他のアイデア」との比較ではじめて決められるものでは・・・。
デザインプロセスの早い時期から決めつけ、他のアイデアを考えようとしない。「1点のみへのこだわり」は、必ずあるはずの「他の可能性、アイデア」との比較もないままに、その課題を終えてしまうことになるからである。

発想能力の育成から言えば・・・。
当然、広く可能性を探る。
時間をかけて深く考える・・・。
・・・・
審査会場で作品の全てを並べ俯瞰しながらの評価は、制作の過程の評価とは明らかに異なる。
作品の「傾向」や「質」など、全体としての印象は違ったものにもなるからだ。
たしかに、「認められる」こと、「褒められる」ことは、何よりも嬉しい。
励みにもなる。勿論、そのために頑張る・・・!
しかし、より高度のレベルを目指して欲しいと思っている教師の側に立てば決して、「褒める」ことだけで評価し、認めることにはならない。
期待すればこそ、強いアドバイスにもなる。否定もするだろう。
若さは、多くを受け入れる<心の柔軟性>を持っている。
受け入れることで「独創性」が育まれていく。
受け入れない「独りよがりの頑迷さ」とは明らかに違う。
・・・・
「指導教師による推薦文は、その作品を知る上でも審査の評価判断でも、大いに役に立っていますね・・・」と向井先生。
認められなかったという彼らの作品にも、じつは、指導教師による熱い推薦文が寄せられていたのだ。
                 (2003/11・13 記)




清水教授のデザインコラム/連載 - 17(10/05/2003)

「愛、努力、忍耐、あきらめ・・・心に残る言葉。」

 私には、いまも心に残っている言葉がある。
正確に言えば新書の中の1節なのだが・・・。時々は、思い出すことにもしている。
その本は、もう2,30年も前に読んだものだ。
当時、著名な社会学者であった会田雄次さんが書下ろしたものだった。
大学か、自宅の書棚のどこかにはあるはずだが、いまは、その書名の方は忘れてしまった。
「20代は 愛、30代は 努力、40代は 忍耐、50代は あきらめ、そして60代は 感謝!」と言うもの。
戦前の日本人の夫婦観で京都大学の先輩教授が折に触れて話されたものだとか・・・。
関西人らしいユーモア、機知に富んだ文章も楽しいものだった。
その軽妙な意味付けも忘れ難い・・・。
「20代は愛!」だと言う。 この事は今も変わらない事だろう。
異性を知り、恋をする。と、相手の全てが微笑ましく好ましく見えるもの・・・。
一挙手一投足、相手の全てを許せる、そんな純真な年代でもある。

「30代は努力!」 そんな二人は当然のように結婚して暮らし始める。
そして、呟く・・・。「もう少し優しくて頼もしい人だと思ったのに・・・」、
「あんなに素直で可愛かったのに・・・」と。
「そう云えば、顔付きも気に入らないし・・・」、「あの歩き方も気になる」
冷静になって日夜相手を見るようになると、今まで好ましいと思っていたこと、些細な事までもが気になり始めるのだ。
しかし、もう結婚した事だし・・・。お互いに、なんとかしようと「努力」はするのだが・・・。

「40代は忍耐!」 お互いに、なにかと努力してみた、が思うようにはならない。
いうまでも無いが家庭は安らぎの場、夫々が本音で生活を始めていた。
お互いが気を使い過ぎても疲れる・・・。思えば相手が生まれ育った環境も違う、価値観も大分違うことがはっきりして来た。
平穏な家庭生活は、お互いが我慢すること、「忍耐」あるのみだと思う様になる・・・。

「50代はあきらめ!」 それでも、どうにもならない・・・。性格も違いすぎると分る・・・。
子供を味方につけ風格の出てきた女房、「従わせるなど思いもよらない」と・・・。
ほどほどだった亭主の実力、尻を引っぱたいて働かせるだけだ、とも。
亭主に失望したら、期待するのは息子・・・。卓上に並ぶおかずの質や量が違うのだ!
「諦める」こと、「相手に多くを期待しない事なのだ!」と、悟る・・・。
「体力的にも自信を失い、そう悟る年代でもあるのだ!」

「60代は感謝!」 「よう〜、こんな偏屈な奴に我慢してついて来てくれたよナ・・・」
感謝、感謝!だと言うのだ。
「悟り」はまた、自らの可能性をも見てしまう年代でもある。
自分の非をも認め、相手に感謝の気持ちになるのだとも言う。

いま、私自身もそんな年代になり、その全てを体験したことにもなる。
そして、その一つ一つが、「まさにその通り、そのとうりだった」と、痛感もしている・・・。
特に、「忍耐」とか、「あきらめ」の年代には強く共感をしたものだった。
この事は、またデザインや仕事の場面に置き換えることもした。
それらの時間を短縮してみる、「そうだ、今はそう言う時期なんだ!」と自分を慰め、納得させることも出来るからだ。

人生、80年と言われる時代。しかし、人も価値観も、生活環境の総てが大きく変わってしまった。
2分に足りない時間で1組が離婚しているのだとか・・・。
いまはこの言葉、死語になってしまったのだろうか?
                (2003/10・2 記)



清水教授のデザインコラム/連載 - 16(09/15/2003)

「ビニール袋の花瓶・・・」

「へェー、アイデアだよな、これ!・・・」
歩み寄って来た数人の若い男女が嬉しそうに覗き込んできた。
一人がカメラを向ける。
それを目の上に翳し、透かしてみるものもいた。
日頃よく見かける何でもないビニール袋が数十枚重ねて置かれていた。また、花を数輪挿し、花瓶として幾つかのサンプルが並べられてもいた。
「確かに、面白いね、これ!・・・」
多分、シャンプーや、リンスの入れ替え用?コンビニに置かれている少量の米を入れるパッケージ?よく見かける何の変哲も無いビニール袋だったのだが・・・。
そのビニール袋には表裏、夫々に平行線が印刷されている。
水を入れると、膨らんだ平行線がレンズ効果とモアレ効果で立体的に花瓶を浮かびあがらせてみせると言うアイデアだ。
「やられたね!これには・・・」と私もショックを受けたものです。
その表裏の平行線が合せると若干交差するように印刷されている。しかし、重ねて置かれるとそれとは気付かないものだった。
水による自立、線の拡大、屈折、線の交差で生じるモアレ効果・・・。
ただ、それだけの、一寸したアイデアがビニール袋を花瓶に変えたものです。

Gマーク審査会場(東京ビックサイト)に並ぶ膨大な製品群、テレビや車、工作機械などでは見え難いアイデアも、これは極めてシンプル、分りやすいものの例でしょうか。
ただ、念のために申し添えれば、これがGマークとして評価されたのかは私は知らない。その審査にはまた、別の条件が加味されねばならないからです。
 ・・・・
アイデアは「思いつき」、「着想」、「創意工夫」、「誰もが気付かなかったことに、気付くこと」・・・。    
デザイン活動に止まらず、日常生活のいろんな場面でも良く使われて案外重要な事なのです。
同じ「問題」、「同じ条件」を与えられても、決して「同じ答え」では無い事を意味します。
新しい可能性、独自の着想がアイデアだからです。
ちなみに、デザインで言う、「アイデアスケッチ」はその「問題、条件」に対する「答え」の新しい可能性を探リ、記述する手法だと言えます。
デザインを学び、アイデアの開発訓練をする時、そのパッドの厚みが発想量、思考時間量を自ら実感する視覚的なモノサシにもなるものです。
 ・・・・
「アイデア」の発想力を持ちたい。その「発想力を学びたい!」
そんな思いは誰でもが持つものでしょう。
実は、私自身もそう思った時代がありました。
大学を終える前後、昭和36、7年の頃です。
課題に取り組むたびに発想力の非力を痛感し、「もっとスムースに発想出来たら・・・」と思う事ばかりだったのです。
まだまだ、デザイン自体がその手法を欧米に習う時代でもあり、手探りの時代でしたから・・・。
自らのデザインの独創性、アイデアを生む確かな手掛かりを持ちたかったのです。
と言う訳で・・・。
A・F・オズボーン「独創力をのばせ」、C・H・クラーク「アイデア開発法」、E・V・フアンジェ「創造性の開発」、H・R・ビュール「創造工学による設計手順」、川喜多二郎「パーテイ学」、井尻正二「科学論」等など・・・。
当時の貧乏学生は神田の古本屋街によく通つたものでした。
誰が読んだか分らない本。書き込まれた傍線や、メモ書き。少なくとも私と同じ目的で読んだものでしょうから、それすら有難いと思ったものでした。
「発想」や「思考法」、「脳の仕組み・・・」など、関係がありそうな本は結構買いあさったものです。
しかし、読めば出来るという類のものではなく科学性、論理性を学べば得られると言うものでもなかったのです。
「科学的、論理的に発想すれば、それは誰がやってもその答えになる。だから、それはアイデアではないよ・・・」と、ごもっともな意見も。
「確かに!」
その発想プロセスのはじめは<視点>を変えたり、<捉え方>を変えてアプローチする。だが、最終的にはそれらの問題全体を捉えた<直観力>によります。
右脳、左脳に限らず、全身体で発想するのです。
独創的なアイデアの<ひらめき>はそこから生まれるのです。
            (2003/9・14 記)




清水教授のデザインコラム/連載 - 15(08/10/2003)

デザイン学科の誕生の経緯・・・・

 平成8年4月、デザイン学科として初めて新入生を迎え入れた日から早や7年、既に250名余の卒業生を送り出した事になります。
放送学科が昭和35年に設置されて以来、36年振り、デザイン系3コースが美術学科から分離、独立したのです。
大正10年に美術科が新設されてから75年目、幾多の変遷を経て「デザイン学科」になったと云う事でもあります。
戦前戦後、欧米に習って近代化を目指した我が国にとっては、直ぐに役に立ちそうにもない芸術教育などに寛容でなかったろう事も想像出来ます。そのルーツをたどる中で垣間見る事が出来ました。
かって要約したものを「略史」として付記しておきました。
しかし、いずれにしても、デザイン学科の先輩はOBの皆さんになります。
どうか後輩諸君をよろしく!
そして、芸術学部OB会にデザイン系3コース出身者とデザイン学科出身者の「デザイン部会」が承認されています。どうぞ交流してやって下さい・・・。
皆さんの所属する企業、部課の名称も多分、猫の目のように変化していることでしょう。
デザイン学科も時代の要請に応えた変容のカタチを一応とったと言う事でもあります。
「デザイン」は常に次代を目指す存在でも在るのです。
・・・・・・・・・・

デザイン学科のルーツ

 「芸術学部史」によると、昭和14年(1939年)、この地、江古田にキヤンパスを移すと「宣伝芸術科」、「商工美術科」、「写真科」が新設されています。これまでの創作、演劇、美術、音楽、映画と併せると8科。
それらの、夫々のカリキュラムを見ると「宣伝美術科」が「コミニケーシヨンデザイン」、「商工美術科」が「インダストリアルデザイン」であったと言えるようです。
しかし、その後、美術学科に統合されている・・・。
その詳しい経緯については知る由も無い。
ただ、その当事者であったろう山脇先生にそのところも聞いておきたかったことだ。
想像するに「宣伝美術」も「商工美術」も「美術」であると言う解釈であったのでしょう。
まだまだ、未分化の混沌とした時代でもあったからです。
しかし今は、「美術学科の出身です」と言うと、「あぁ、絵を描いておられるのですか?」と言われる。
「いいえ、デザインを専攻しています・・・」、「え!・・・ああ、そうですかァ・・・・・」、「で、デザインは何を?・・・」と、続くといささかうんざり・・・・。
そんな、ちぐはぐな会話から始めなければならないのです。
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「私共の『デザイン』は様々な曲析を経たが現在も『美術学科』の一部として存在している。しかし、『美術学科』という名称は純粋美術、日本画、絵画、彫刻、工芸などと解釈され、デザインの目標とする方向とは大きな差異を感ずるものとなってきているのです。
勿論、これまでにも学科として数回の検討を繰り返したが『絵画』、『彫刻』、『ビジュアルコミニケーシヨンデザイン』、『インダストリアルデザイン』、『住空間デザイン』各コースを表し共有し得る適切な名称を見出せず今日に至っている。」
1983年(昭和58年)に求められた「デザイン学会・機関誌」に「日大のデザイン教育、デザイン用語を問われたときの拙文の一節です。周辺にあるジレンマ、私の心情を吐露したものになっているものです。
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戦後の社会的混乱の中で、新しい時代を迎えるたびに社会の構造が鮮明になります。
勿論、大学教育としての「デザイン」も徐々に其の<体>をなし、生活の中に浸透してきた時代でした。
産業近代化のはじめにはその行為を「美術」や「意匠」と呼び、やがて、「デザイン」に変わった・・・。
勿論、その意味内容も「外的形状問題」から、その「形状を成らしめる内的な問題」へ、そして、その「モノが存在する空間」、「科学性と企てること」へと、その関心は移つり拡大解釈され急激に変化してもいたのです。
目覚しい我が国の経済成長に併せ、「デザイン」もまた、確りと先端工業化社会の一員として浸透していたのです。
美術を母胎として生まれたデザインも、その内容が異なり、明らかに異なる目標に向い始めていたのです。
デザイン=美術としては理解され対応され難くなっていました。
進学、就職問題など様々な面から大きなハンデイにもなって来たのです。
デザイン系3専攻にとっては、旧態然とした美術教育として受け止められかねない状況にもなって来たからです。
国公私立にも競合新設大学が急増し、デザインとしてのカリキュラムの整備が急ピッチに進み、情報社会の未来を意識させられたものでした。
デザイン系3コースにとっては死活問題でもあり、危機感を募らせたものでした。
それらの問題は美術学科として受け止めてもらい、学科の懸案事項としてよく検討したものです。
「時には、徹底的に検討しましよう!」と、旅館に教員全員が泊まり込み夜を徹して話し合った事も・・・。
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バウハウスシステムのデザイン教育

 世界にその影響力をもち、近代デザインの基点ともなったバウハウス(ドイツ)。そのバウハウス留学から帰国した山脇巌(建築)によって1938年バウハウスの教育システムが「商工美術科」に導入された。
その後、美術学科主任教授として長らく教壇に立たれていました。
その後を柳原義達(彫刻)主任教授、更に中谷貞彦(絵画)主任教授に引き継がれて来ました。
その後を受けたのが私(インダストリアルデザイン)。
当時、大竹徹学部長を引き継がれた八木信忠学部長との話の中で初めてご理解、ご決断を頂いたものでした。
学科問題の検討を始めて15年目の事でした。
まさにバブルに有頂天・・・。「理想」は高く、「夢」は大きく、世を挙げて「21世紀はデザインの時代」として持て囃された時代から、バブルが崩壊し不況感真っ只中へと状況は様変わりしていました。
1996年(平成8年)、美術学科からデザイン系3コースを分離、新設と言う形で8番目の学科は誕生したのです。難産でした。
その前年、<学科新設決定>を受けて発表を本部で行いました。その折、新聞、雑誌等の関係者を前に敢えて「日本大学(14学部)83番目の学科である」とも、申し添えたことを思い出します。
デザインは人間生活の全てに関わり、或は全てを基盤として成立すると言えるからです。
デザインの総合性、デザインは本学のような総合大学にあることをメリットとして随分早い時代からくから標榜してもいたからです。
新学科としての目標は1−情報化への対応 2−現実社会の動きを機動的にカリキュラムに反映させる 3−国際化への対応 4−その他などとしました。
デザイン学科の主任と併せてこれまでどうり美術学科の主任も、というご意見も頂きましたがせっかくの分離です、美術として新しい主任を、と固辞し産声をあげた学科運営に当りました。
美術学科定員120名を2分化した60名、デザイン学科にとっては10名強の定員減になる人数でした。
分離独立は教員、教育内容の一層の充実、一方で適正定員増を目論んだものでもあったのです。
しかし、「都区内の定員増は認めない」という国の方針は動かないものでした。かろうじて許された留学生枠20名を加えた80名が新学科の定員となったのです。
さらに、バブル時代、デザインは「21世紀のキワード」として企画誘致されたデザイン系大学、学部、学科が全国的に乱立したのです。
学科新設は時代の激しい変化、逆風の中の船出でもあったのです。
しかし、多くがこの分野を有望であると見ており、大学を誘致設立したものです。
ライバルに負けない努力、次代の要請に対応を怠らないこともまた生き残りを掛けた学科としての使命であるとも言えましょう。
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「夢」を語り合える環境作り・・・・

 長引く不況、閉塞感が社会的な問題として噴出し、弱体を曝け出しています。
更に少子、高齢化が追い討ちを掛け、教育環境はあらゆる意味で激変しています。
最近の青少年は「日本の将来は暗い」、「努力しても無駄」とも感じてもいるようです。これでは、学ぶ気にはならない、でしょう。
未来を夢見てこそ、学ぶ意味、その志を持つことが出来るから・・・。
我が国はいま、この閉塞間を打開する為に高等教育の整備充実を計り、次の発展を目指した様々な施策をも講じています。
大学も、学部もその渦中にあります。
しかし、この時代、まさに「その夢を見、語るに相応しい『芸術学部』である」こと・・・。
その「夢」を、学生自らの意志を持って達成する、そんな教育環境が作り上げられねばならない。
若い志を覚醒させ、促すための環境造りが今後の課題でもあると思います。
学部は今、再選された一ノ瀬学部長を中心に、8学科一丸となってそれらの問題に当っています。
そんな次代へのエネルギーを感じてもいます。
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学科とほぼ同時に進められた大学院、専攻科増設は美術学科を基礎学科とするもので、その分野は絵画、版画、彫刻、美術理論そして、視覚デザイン、インダストリアルデザイン、建築デザイン、デザイン理論などと広く、それらを表す名称にも苦慮した。
「造形」とし、学部の「芸術」を合わせた「造形芸術専攻」としたのは苦肉のこと。
異分野3コースを表すために「デザイン学科」と、一般的な名称をとらざるを得なかったことと同じ問題を含んで理解されがたい部分もある。
デザイン学科主任は私の後を深谷光美教授(建築デザイン)、そして現在、中島安貴輝教授(視覚デザイン)へと順調に引き継がれ、より良い学科、コースの運営にご努力頂いています。
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この稿は芸術学部OB会福岡支部の求めに応じて、その機関紙に執筆したもの。
更に加筆しコラム?としてID系OBの皆さんにご報告します。
併せて、付記した「デザイン学科略史」は、1983年、デザイン学会の「デザインに関わる用語」を「芸術学部50年史」から要点のみを抜粋したもの。
完全な「デザイン学科史」ではないことをお断りしておきます。
ちなみに、「50年史」の後に「70年史」、一昨年には「80年史」を刊行。
勿論、用語は旧態然としているがその精神、動機など、またカリキュラムは極めて興味深いものがある。
改めて、その変遷、苦心の後が覗えて面白い・・・。
温故知新!折を見てご覧下さい。
                         (2003/8・10 記)
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付記:デザイン学科略史(芸術学部50年史から)

1921(大10)・3・28日本大学に「美術科」を新設。
「美学科」は我が国に於ける斬新な企にして、之により、全学生の審美的気風を助長し、円満なる人格に到達せんことを目的とす。(出典、日本大学芸術学部50年史、新設理由)
我が国、芸苑は行き詰まりになって、生命のある新芸術の花はまさに開かねばならない・・・。然るに現代社会を見ますに、物質主義の横行は、普遍たるべき芸術に特定階級化して其の光輝を覆うています。且、芸術の天才も、学ぶに其の処を与えられませんで、物質文明の脚下に踏み躙られています。従って民衆と芸術とは全く隔離せられて、生活の芸術化は到底出来ない有様に至りました。
大学に「美術科」を新設し、芸術大学の実を有せしめ、新芸術の創生を期し、天才の出現、評論家の出生、芸術の民衆化等に於て、新文化の創造に参与せん・・・。(芸術大学創設の趣旨より)
1924(大13)・3・31「美学科」を「文学芸術専攻」と改正する。
他に哲学、倫理学、教育学、心理学、国文学、漢文学の各専攻。
3ヵ年の経験にかんがみて、「美学科」の理論偏重教育では、芸術向学青年の心を把握することが出来ず・・・。単なる理論よりも、実技に重点をおくのが当然であろう。(出典1)

1926(大15)・1・20 「文学芸術専攻」を改め、「外国文学芸術専攻」とする。
文学志望者を英文学により指導し、これと、美術、音楽、演劇と組み合わせたもの。
1927(昭2)・5・12「外国文学芸術専攻」を分離、「芸術学」と「英文学専攻」とする。
専攻科名のみでは、内容がなんであるか判然としないため。
1929(昭4)・5・2 日本に初めての「綜合芸術大学」・日大破天荒の試み(国民新聞・朝日新聞)

1939(昭14)・4 「芸術科」江古田へ移転
専門部は「宣伝芸術科」、「商工美術科」、「写真科」を新設
芸術家専門部は「創作」、「演劇」、「美術」、「音楽」、「映画」に加えて、上記三科を増設

「宣伝芸術科」は、「産業宣伝」志望と「文化宣伝」志望の二つの分かれ、前者は実業方面に、後者は国策の線に沿って、大陸進出と主眼とした宣撫、宣伝、諜報教育を内容とし、ドイツのシュラダミューラー博士の諜報学校に擬したものであった。

「商工美術科」は今回の新設科の中でも最も特色を有するものとし、アメリカ、ドイツ、などにおける「新バウハウス」の新しいシステムに対し、本学、芸術科が独特の新味を加えたもので芸術の実用化、普及を目的とし、実用美と、大量生産を計ったところに意味がある。
その様な意欲のもとに「木工」、「竹工」、「ガラス工芸」など80種にも及ぶ製作を対象にして、特に戦傷病兵を入学せしめ、これ等を新しい部門への職場転換に道を開拓しようと策したものであった。(出典1)

宣伝美術科実習
「宣伝文作成」、「宣伝演劇」、「宣伝映画」、「宣伝意匠計画」等が1〜3学年にかけておこなわれる。他に「宣伝心理」、「文化統計実習」、「大陸文化知識」、「諜報学」などの講座が見られる。

商工美術科実習
「美的形式論」、「風俗文化史」、「世界工芸様式」、「世界工業様式」などが見られ。一般意匠計画として、「建築意匠計画」、「造園風致意匠計画」、「都市意匠計画」、「展示意匠計画」、「劇場意匠計画」、「商品意匠計画」、「宣伝意匠計画」、「工芸意匠計画」、「船車意匠計画」がある。又、具体的な実習としては「木材工芸」、「竹材工芸」、「ガラス工芸」、「彫刻工芸」がある。(出典1、専門部芸術科・学科課程)

江古田校舎の竣工と共に、大いに内容に、外観に、面目を新たにする意味において、芸術科の紋章を制定。
横長の楕円は運行を現して芸術の時間面を、中央の円形は位置をあらわして芸術の空間面を象徴したもので、天体の運行面からのヒントである。紋章の全体から受ける印象が、日本大学の日に、又、全体の感じが眼を連想せしめる。けだし、目は人体の中心であり、英智のシンボル・・・(図案作・講師 海老原喜之助)
最近、日本帝国の飛躍的進展は物質文明の異常な発達に基因する・・・。即ち物質文明の基調をなし、遂に物質文明に優越するものは精神文化の顕現である。・・・芸術に俟って豊饒なる精神力を養い、弾力性と飛躍性を有せずんば、断じて新時代が処すべき国家発展の機能は、全きを期しがたいのである。
・・・あらゆる芸術的分野を余す所なく網羅し、各科の連繋総合を計り、・・・興亜文運の進展に資せんとするものである。(出典1 芸術科設立の趣旨 昭15・4)

戦運急を告ぐる秋、芸術などとは閑人の閑、葛藤に過ぎぬ、とうそぶく人あらば、時代錯誤も甚だしい。長期建設とは、第一線に勇猛果敢の師進め、第二線に経済、政治、外交が出動し、第三線に待機の姿勢をとる文化一般が発動されて、・・・硝煙なまなましき荒地にさんらんたる文化の雨を注いでこそ、いんいんなる平和の暁鐘に応う・・・。(出典1 芸術の役割)

1944(昭19)・1 専門部「芸術科」を「戦技科(仮称)」と改称す。「日本大学板橋工科」と通称。本芸術科がすでに教育の基調とする国防芸術を直接戦力の増強に資せんが為、各科特有の技術を戦力的に発展・・・(出典1 名称変更の理由)

1946(昭21)・4 再び「芸術科」とし復活。専門部「芸術科」、「写真」、「映画」、「文芸科」、「音楽科」に新たに「造形科」を設置。
美術と工芸技術の原理を教え、陶工、木材、その他諸材料の研究、実習を積ませ、生活と関係の深い、しかも芸術味の豊かな生産工芸の設計者を作り出すため、原型制作をも修得させようとしている。(出典1 日本大学芸術学園学生募集要項)

1948(昭24)・4 日本大学が新制大学となり、「芸術科」は「芸術学部」となる。
従来、文学部に従属していたものが、完全独立と云う事で、委員会において議論沸騰した。
芸術と云う技能的教育は、専門学校で事足りる。学問の領域外のものである。
わが学部は、芸術の種種の分野を総合的に、また専門的に指導する「新制芸術大学」である。
・・・芸術教育は専門分野の学理や、技術を修得させるだけでは不十分、関連をもって総合的な研究と指導とが必要・・・。(出典1 学部入学案内 昭25・4)

「美術学科」は、一般的教養科目に併せ、デッサンの修得に力・・・。三年からは各専門に分れ、絵画、彫刻、理論またはデザイナー志望に総合的な研究の途が開かれている。
B、歴史部門 「芸術史学」、「芸術思潮史」、「住宅史」、「工芸史」、「写真史」 他
C,特殊研究部門 「美術作品研究」、「写真作品研究」、「鑑賞批評論」、「新聞雑誌研究」、「視覚教育」
D,技術部門 「美術技巧論」、「意的構成研究」、「写真特殊技術論」、「映画特殊技術論」、「ジャーナリズム論」、「素描」、「装図」、「図案」、「展示及び意匠計画」、「ポートレート技術」、「装置」、「造型実習」、他 新制大学になった時のこの授業科目をもって基本的には今日に至っている。

1956(昭31)・4・1 「美術学科」デザインコースは「ビジュアル・コミュニケーション」と「プロダクト・フォームの二つの内容をもつ。
「ビジュアル・コミュニケーション」、「コマーシャル・コミュニケーション」、「プロダクト・フォーム」、「建築・インテリア実習」等が行われる。

1969(昭44)・4・1デザインコースの内容は、「ビジュアル・コミュニケーション」と、「インダストリアル・デザイン」、「インテリア・デザイン」(テキスタイル・デザインも含む)の各カリキュラムを開放、多様な選択が可能な新選択の方法(二年次以上専攻)

1973(昭48)・4・1「デザインをビジュアル・コミュニケーションデザイン」、「インダストリアル・デザイン=工業デザイン」、「住空間デザイン=リビングスペース・デザイン」の各コースに再び分離。
各コースの特自性を強調。「アド・アート」、「パッケージ・pop」、「コマーシャル・フォト」、「視覚デザイン方法論」、「レタリングタイポグラフィー」、「環境論」、「デザインメソッド」、「計画概論」、「プロダクト・プランニング」、「インダストリアル・デザイン」、「インテリア・デザイン」等の各実習が行われる。

1983(昭58)現在 その延長上に、「人間工学」、「工業デザイン概論」等、各コース毎の補充があり、定員制がある。
「あとがき――この稿は、本学における変遷の中で、<デザインの用語>を求められたものであった。しかし、結果は、私共の大学の特殊性にもよろうか、これが、とはっきりデザインの用語を示すことは出来なかったように思う。
しかし、デザインと断定出来ないのは、そこに本質的な問題があり、デザインと云うものが常に時代のカオスの中で要求され、意味付けられてきたからだとも云える。あるいは、今日の如く、デザインが意味を広く、そして人間生活の全てに関わる文化的な行為であると理解すると、その輪郭はにわかに拡大され、複雑に隣接領域と重なり合ってくることもある。それらの名称、用語は、デザインと不可分の意味を内包しているからである。
いずれにしても、「明治憲法発布」と時を同じく「日本法律学校」として設立されったものへ、美術や映画、音楽などと云う、およそ異質とも見えるものを根付かせようとし、大学として高等教育を目指したものであったから、文部当局や周辺、まして大学内部の理事者にすら理解されなかった様である。
「哲学の一分科ならばとに角、美術や音楽、まして映画や写真等と云う、実技をもって必須課程とするものなど専門学校で十分である」と廃科案、三崎町本部からの追放、酷評と弾圧、戦時下の教育不在、戦後社会の消滅的な中をたどる過程は、まさに、我が国における芸術教育、そしてデザイン教育の開拓史と重なって興味あるものであった。
今日、そしてせいぜい明日のことで手一杯となり、およそ振り返ることのなかった過去を出典1とした「日本大学芸術学部50年史」(昭47年11月10日刊)に、デザインコースの源流を求めた」
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