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清水教授のデザインコラム/連載 - 30(11/30/2004)

コンセプトーーデザインのはじめに・・・・

「もう、限界かァ〜」と、パッドをおき、瞼を閉じる。
だが、先程まで苦しんだ「アイデア」が頭の中を駆け巡り、なかなか寝付かれないのだ!
そんな時にも案外いいアイデアの「ひらめき」がある。
執念や雑念から解放された時に生まれやすい、と言う条件もあるのだろう。
「やれやれ、これで何とかなりそう・・・」
安心感もあってか眠気が襲う・・・。
先程のアイデア、忘れないようにと反芻(はんすう)しながら・・・。

「あれ、昨夜、確かにいいアイデアを思いついていたはず・・・」
「思い出せない・・・」
「メモ、しとけばよかったァ〜」
失敗を繰り返すとさすがに反省、おっくうがらずにメモするようになるものだ!
「メモは記憶に勝る」と言う・・・。

もっともそれらのアイデア、翌朝、見直してみると案外つまらないものも・・・。そのことも数知れず経験している。
ともあれ、デザインのはじめには「質より量」である。
アイデアを網羅することは、思い込みの1点に止まりがちな発想、さらに広く可能性を探ることで、より良い解決案を見出すことが大切だからである。
短絡で硬直した思考領域、その幅を広げることに効果大きいからでもある。
デザインの発想は常に柔軟でなければならない。
予め排除しがちなアイデアにも意外に大きな解決の糸口がある。
テーマのアプローチ、それぞれのメモやスケッチの厚みがアイデアの質を高め独創的発想の糧に、そして財産にもなるものである。
「メモはもう1つの頭脳である」とも言われている・・・。

コンセプト??デザインアプローチのはじめに!
 デザインプロセスのはじめに提示され、要求もされるキーワード。
普通に「考え方」や「大まかな内容」程度の意味から「企業経営の戦略」「商品販売のための企画立案」「製品開発のコンセンサスを得る手段」など、やや専門的な解釈まである。
たまたま先程のニュースでは「アレグリア2のコンセプトは『人間賛歌』ということでしょうか・・・」と、アナウンサー・・・。
極めてタイムリーな事例だが、使われ方によっては内容や意味も微妙に異なるもの・・・。
しかし、本来は「概念」「観念」「発想」等と解釈され「全体を貫く統一的な視点や考え方」を指すもの・・・。
ある「テーマ」に対して具体的に全体が明確になる前の構想レベルとか範囲を明らかにした仮説立案であると考えると分りやすいのかも知れない。

演習などではキーワードとしてのコンセプトは、やや気負ってしまうのか苦痛、苦手、避けたがっているように見える。
しかし、コンセプトが曖昧で動機が希薄となれば当然、手が動かない、アイデアスケッチがすすまないということになる。
勿論、コンセプトは個人や組織活動を動機付けることにもなるだけに、その質の高さ、立案に優れることはデザイナースキルとして必須のことでもある。
その資質、多くは人の成長過程で育まれたものだが、十分な経験と人より優れ、他人とは異なる視点を持つ努力は続ける必要があろう。

日々の生活の中で、私たちは「何か」を見ている。
しかし、後で思い返してみても余りはっきりしない、という事が多い。
つまり、「意識して観ていない」、「関心が無い」と言うことだろう。
前回のコラムでは「形」を捉える「眼」を、「意識した見方」を述べ、白い紙面にその対象を確り描くことをすすめたものだった。
デザイナーとして、「形」のプロとしてそれらを体に強く刻む必要があったからだ!

その「みる」行為は「眼」で見ることの出来る対象、視覚的なもののことだけではない。「人の生き方」や「欲望」「考え方」に関わる、そんな本質的なことまでも「みる」ことが重要なのだ!
演習等でも、少なくとも「5W1H」を基に、意識して観察する姿勢が必要だろう。
幼時にありのままの対象を見ることからはじまる好奇心!様々な発見!その感動!
それらが人の「感受性」を育み、「世界観」や「人生観」ともなって個性を形づくるもの・・・。
コンセプトのユニークさ、「質」の高さはそこから生まれるからだ!

                 (11・29/2004 記)
追記:

デザインコンセプトは雑学的好奇心から生まれる・・・
  生活の中にひと・もの・こと等を観察する
  5W1Hで考える 
  記録する習慣を持つ(メモ、スケッチ等として)
  その他

観察の対象:見えるカタチ・見えないカタチ
     :人間・社会環境・市場環境・商品・その他ハ

  類似語:構想・意図・企画・目論見・本質・イデア・アイデア・デザイン






清水教授のデザインコラム/連載 - 29(10/29/2004)

デザインーーデッサンからアイデアスケッチへ   

アイデアスケッチがすすまない・・・。
最近、特に演習テーマにアプローチしている彼らの手元を見ながらそう考えることが多くなった。
明らかに何かが足りないからだろう・・・。
テーマに取り組む意欲? 解決するに足りない情報量? その場でノルマをやりとげねばといういう目的意職? 雑音に惑わされない意志力?
勿論、いずれも足りない?
しかし、ここではスケッチ力の不足が問題だろう・・・。

スケッチ力はデザイナ資質の要素としてはいまも大きい意味を持っています。
スケッチが上手いということ、デザイナーとして要求される思考能力の多くを備え,視覚的に見せてくれると言う効果もあってのことでしょうが・・・。
デザイン思索のプロセスを自他共に視覚的に見ることが出来る手法であるからでもあるのです。
そして、そのアイデアスケッチの基本となるものがデッサン。
基礎教育課程、デッサンに対する取り組みは目標を見据え、最も意欲的で集中したものであるはずだが・・・。
入学前からの予備校通い、やや食傷気味?とも聞き及んでもいる・・・。
「デッサンなんか、もういいよ!もう十分!」などユメユメ思っているわけでは無いのでしょうが・・・。

「デッサン」はデザイナーのみならず画家や彫刻家、あるいは建築家など造形活動の基本を「かたち」におき、共通するスキル習得のための訓練であるといえるもの。
その意味ではデッサンを繰り返すことは極めて自然な創造性修練の行為でもあると言えるものです。
しかし、今ではその専門性の要求から?ややその内容に差異が生まれ、目標も限定的、必要最小限のものになっているのではと思える。                                     何よりもその意味や目標が見失われているのではとも見えるのです。

デッサンについて
 デザインを志すものにとって「形」を読み取る訓練は至上の目的となるものでしょう。
日頃から絶えずあらゆるものの形に興味を持ち"観察する"という心構えが必要です。「眼で観察」し、「頭脳の指令によって手の動きに変える」という、この一連の作業を繰り返すと言う訓練、そして、何よりもその「観察眼」を研ぎ澄ますことが重要でもあると言えるのです。
その繰り返しが、ただ漫然と眺めているだけでは気付くことの無かったことに気付かせ「思索する心」を育み、深く記憶するものになるものです。
「見た結果」、「描いた結果」は「意識した見方」、「見る技法」、「視覚の法則性」をも体得するものになるのです。
自然物、人工物の世界にも我々の気付かない無限の造形があり、その法則性があるのです。フイールドは無限の示唆に富んだ教師でもありのです。

●デッサンのすすめ
 何はともあれ、鉛筆をとり身の回りにあるもの、興味を引いたものを気軽に描き「眼と手」を慣らすことからはじめましょう。
対象物を見たとうり、見えたとうりに描き写すことを意識しましょう。
しかし、うまく描けない、見た通りに描けないと思うとき、その理由を考えてみる事が重要です。
自分が描いたものと対象物を並べて比べる。
違いを、微妙なずれを見つけるのです。
また、同じものを描いている人との比較が出来るならば、うまく描けなかった理由のいくつかが明らかになるはずです。
そんなささやかな訓練が、形のプロとしての厳しい「眼」を育むことになるのです。
自然物、人工物を問わず興味深く「観察する」習慣を持つ人は何よりも資質に優れたと言える。
冒頭、彼らの手元に不安を覚えるのはこれらの理解不足、訓練不足!ここに発想力不足の大きな原因があると考えています。

デッサンーー「形」を捉える
・ものを見る「心」、「観察眼」を養う
・自然物、人工物の「形」の成り立ちを明らかにするーー形態、構造、仕組み、質
  感、規則性、輪郭線、部分の結合形、細部の変化の把握、異材質の表現
・ものの「形」を明瞭に観察できる光源ーーものの明暗、陰影、投影、反射などの十
  分な理解をもつて形状観察を試みる
・「眼」視知覚的な法則性の理解ーー錯視、空間・線のパースペクテーブ
・紙面という空間の把握ーースケール感、比例関係、構図、収まりを考える美意識。
・自然物・人工物の美醜の判断力を持つ(識者、専門家の意見も参考に)することも・・・。
・紙質を選び、筆記具を選ぶことは描くことを楽しくさせるもの。
・その他

●アイデアスケッチのすすめ
アイデアーー誰もが気が付かなかった事に気づくことはそう簡単な話ではないはずです。
発明、開発にも相当するこの作業は理論的、科学的に学べば得られると言うものでは無いだけに、ただひたすら時間を掛けると言うことになります。
「視点」を変え「捉え方」を変えての思索のアプローチ、アイデアスケッチを紙面に描き連ねることになるのです。
勿論、ラフモデルと併せたものがより望ましいともいえます。
わが国の掃除機を一変させた、あのサイクロンの掃除機。開発に5千余点の試作を重ねたと言うダイソン社長のようにエネルギッシュに思索し、試作を重ねていく姿勢に見習うべきものは多いのです。
また、当然のことながら独創する事はリスクを伴うもの・・・。
十分な確信を持つ努力、そして決断する勇気が必要でもあるのです。
デザイナーダイソン氏の生き方、デザインアプローチはまさに我々のお手本となるものでしょう。
(29.OCT.2004 記)




清水教授のデザインコラム/連載 - 28(9/27/2004)

「何か?」が変わるとき・・・・

「ご趣味は・・・」と、時に私にも聞かれることがある。
そのたびに、「スポーツ観戦です」と答える事にしている。
旅行やゴルフ、つり、ボーリング、テニス、スキー、写真、将棋、碁・・・。
「デザインをやるのに何でもためになるのだから・・・」と、若い頃、誰かに進められた。
何でもやった、が1っだけにはまらないことにした。
それらを思い巡らすのだが・・・。どれが趣味だと言えるのかと躊躇してしまうからだ。
「ありません・・・」と応えるのも、余りに無愛想、話が終ってしまう。
何より「朴念仁に見られかねない!」と考えてのことだ。

野球は例外として、ボクシング、サッカー、バレー、水泳、柔道・・・。それが何であれ、特に国際試合であれば一層、応援に身がいる。
かっての日本は、身長差、跳躍力、筋力など体力的に劣るために様々な秘策を講じた。様々な小細工?相手の裏をかく奇襲攻撃は見事だった。
世界に冠を成していたバレー、その「技」も先方に読まれ盗まれると分が悪くなった・・・。
サッカーも「駄目だナー」と言う感覚が数年前まではあった。
敵ゴールにボールを蹴りこんで行くわけだが、いかにも約束されたパターン、戦略はぎこちないものだった。動じる事も無く敵勢はがむしゃらに攻め込んでくる、その個人技、何よりも身体能力の高さを見せ付けられた。
そんな試合に愛想を付かして、余り見ることもなくなった。

しかし、最近、幾つかの試合を見るにつけ、その動きにほとほと感心してもいる。
国内Jリーグの盛り上がり、チーム間の切磋琢磨は、個人技を研ぎ澄ました。
若い優秀な選手も続々と生まれてもいるようである。
さらに、海外名門チームへの参加、一流選手を直接目にし、対戦することで過大な恐怖心はなくなり自信と確信にもなっていたのだ。
ゲームセンスや駆け引きに一層の磨きがかかったのだ!
そんなメンバーによるチームワーク、以心伝心のフオーメイションは変幻自在に機能して見事だ思うことが多くなっていた。
これがあの同じ日本人かと思う最近の試合振りだった。
ただ、今回のアテネ・オリンピックでは残念な結果に終わってしまったのだが・・・。
まさかの連携ミス、一瞬の油断があったのだ。
そして、マスコミが騒ぐほどに世界は甘くなかったと言うことだろう。
しかし、その実力は確実に世界のレベル! 必ず次に繋がるものだろう・・・。
多分、何よりもそれらに刺激された小中学生を含めた社会的な底辺の広がりがあるからだ!スポーツは何よりも強くて、勝利することが人々の関心を集める。
選手と共に多くのサポターもひたすら勝利することを願って参加しているからだ。
・・・・・・・
ところで、70年目にして初めてのことだとか・・・。
日本のプロ野球選手会がストを行った。
ここ1週間ほどの国を挙げての論争にも・・・。
2リーグ12球団の経営が困難でパリーグ2球団の合併計画が発端だった。
ファンの為にと言う経営者、選手会双方の言い分には大きな隔たりがある。

数十年?営々と積み上げて来た球団組織、数えられないほどの艱難、耐えた辛苦!
その後に・・・。やっと得たであろう経営者たちの現在の地位・・・。
「選手如きに何が分る!」
「IT企業?」、「ライブドアー・・・」、「ポット出の若造に何が出来る!」
「経営が簡単にやれるものではないんだ!」と言う・・・。
僅かに10年足らずで年商100億。いつの間にか資産は数千億の・・・。「得体も知れない飛んでも無い奴! しかもネクタイもしていない・・・」
既存の企業人、経営者像のイメージからは押し測れないもの、余りにも異なる「カタチ」への拒否反応は大きいものだった。
ヌボーとした風貌、今時の若者らしくフランクなTシヤツ、31歳のライブドアー堀江社長への拒否感は極めて人間臭い感情、面子の問題でもあったのだ。

双方に初めてのこと、意地の行きがかりストのようにも見えるが実は、古い体質が台頭する新興勢力への拒否反応でもある様に見へる。
経営者側の一方的で尊大な姿勢、しかし、徐々にマスコミや世論の声が聞こえ始めると妥協点を見出そうとする動きに変わった。
一時の感情、拒否反応も時間を置いてみれば極めて他愛のないこと、大人げ無いと気付くものだ。利害、良し悪しの判断は徐々に譲歩の姿勢に軟化している。
そのための若干の時間・・・。
IT企業が社長の意向で即断することに対して経営側の「決断」は複雑な思考回路を経た末に決めざるを得ないものだった。
最初に名乗りをあげた「ライブドアー」、追って名乗り出た「楽天」、何れもがIT系ながら経営者の駆け引きにも興味が持たれる。
・・・・・・・
共同会見では経営者側の譲歩が言われ、スト回避が報告された。
さらに1社、IT企業・楽天の球団経営参入表明が又、野次馬の好奇心を煽ることに。
銀行OBで財界に人脈を持つといわれる楽天・三木谷社長のネクタイが決まっていた。一方、若者に共感されるTシャツ・ライブドアー堀江社長、代理でコメントをしていた副社長のネクタイの襟元が締まらないのもご愛嬌か!
そういえば先ほど記者会見した古田選手会会長と各球団選手会長達、経営者側の面々もネクタイを締めていた。
ヨーロッパを起源とし男性の襟元を飾るネクタイ、サラリーマンとして働くもののシンボルにもなっているようでもある。
ホワイトカラーであるという印し? 所属する企業への忠誠心、働くものの自意識を喚起するもの?かも。
しかし、何よりも他人に「礼」を失しない気配りを「カタチ」として見せる、常識ある社会人としての「シンボル」なのだろう。
そういえば、まさに常識ある大学生が、タレント紛いの扮装で「その場」が何をすべき所で、相手が誰であるかも考えられない者が増え、幼児化が目に付く。
「他人の目」、「カタチ(外見)」からの自己評価!高度のデザインを志す者ならば十分意識すべきであり、大人としての自覚、思考力を持つて欲しいものだ!
高温多湿、我が国の夏には耐え難いだろう企業人のネクタイ!しかし、耐える彼らのプライド? 社会人として、マナーとしてのネクタイ姿には敬服もしている。
私自身は、暑い日に襟元を締め付けるネクタイは苦手だ。ただ、人並み以上に社会人としてのマナー、他人に不快感を与えない身だしなみには心掛けてもいるつもりだ。

あのライブドアー堀江社長、IT企業家としての自信、しがらみに囚われない合理主義。
しかし、独善的な生き方には不遜と見られかねないこともあって、スムースな計画の進行を妨げるものにもなる。
そんなしがらみを抜けて時代は確実に移るものなのだが・・・。

(23・Sept/2004 記)
・・・・・・・・・・・・・・・

追伸:ヤンキースの松井やマリナーズのイチローの活躍をリアルタイムで観戦出来る時代でもある。
我が国のプロ野球も時代のしがらみを抜けて、次代への一層の発展があるのだろうか?
来期、IT企業チームがどの様な「カタチ」でに生まれるのだろうか?
また、新球団の誕生は数十年振りの事だとか・・・。
それもまた、楽しみでもある。




清水教授のデザインコラム/連載 - 27(8/31/2004)

「目玉のマーク」---シンボルマークが意味するもの

 <日芸>は80余年、戦前戦後の歴史を通じてユニークな人材を世に送り出しており我が国の芸術文化の一端を担って社会に高い評価を頂いています。
デザイン学科も又、現代生活の強い要請の下に一貫したデザイン創造の教育を行ってまいりました。
「想像から創造」へ、より独創的に可能性を探求する強い意志を持ってテーマにも挑戦しています。「生の生活」を自らの体で実感し「自らの手を持って考える」ことをもモットーにしています。
人は常に「より良い生活」を求めています。
その生活の変化にまた新たな人間が生まれ新たな問題が生みだされます。
人間は、その「要求と変化のプロセス」を繰り返します。私共はその「要求と変化のプロセス」の中で自在な形をとり、ざまざまな分野との連携をもってしなやかに機能しています。
私共の知財センターNUBICを通した特許出願にも意欲的です。
勿論、まだまだ未熟!しかし、その若い意欲、可能性を見て頂ければと思います。
どうぞご批評頂けれ幸いです。

先日、東京ビックサイトで行われた「2004 Design Initiative」の本学の出展概要です。
戦前戦後を通じた我が国の極めて大きな変化、変貌ぶり・・・。デザイン教育が図案、意匠と言われていた時代からの紆余曲折。
しかし、記憶を辿れば私自身が学び、そこに触れてきた時間の長さにも又、感慨深いものが有りました。
ところで、その展示モチーフとして使われていた学部のシンボル=「目玉のマーク」は、その意味がよく理解されたものではなかったようです。
勿論、私自身もそのことをよく知っていると言うことではなく記載されている「学部50年史」から読取るだけであるのですが・・・。
「昭和14年、芸術科(芸術学部の前進)がこの地、江古田に新設され校舎の竣工と共に大いに内容に、外観に面目を新たにする意味で芸術科の紋章を制定した」と記述されています。
その創作者は本学の講師であった海老原喜之助氏。

私にとっては「あの海老原?・・・」
後年、我が国を代表する洋画家として、又、熊本で「エビケン」という画塾を主宰し後継の指導をされており、当時、中学生だった私も「通いたい!」と強く憧れもした画家でもあったのです。
その事は学生時代には知る由もなかったことですが・・・。

「外周の楕円は宇宙の運行を表しており、芸術の時間面を、また、その楕円に内接する円は位置を表わし芸術の空間面を象徴したもので天体面からのヒントである」と記述されています。また、「その紋章の印象を日本大学の『日』にも、さらにその形を『目』にも連想すると言うことで『目玉のマーク』として親しまれている。
「もとより目は人体の中心にあり『英知』のシンボルとも解釈される」と言う創作者の意図もあったようです。
「最近、日本帝国の飛躍的な進展は物質文明の異常な発達に起因するが・・・」「芸術など必要ないのでは・・・」等と言われるなか「すなわち、物質文明の基調をなし、次に物質文明に優越するものは精神文化の顕現である。--- 芸術に相俟って豊穣なる精神力を養い、弾力性と、飛躍性を有せずんば、断じて新時代が処すべき国家発展の機能は全きを期し難いのである。--- あらゆる芸術的分野を余すところなく網羅し、各科の連携統合を計り、--- 興亜文運の進展に資せんとするものである」と「芸術科」設立の趣旨に述べている。(昭和15年4月)
果敢にもその必要を唱えた時代の気概を、その先見性を窺がい知ることが出来るものだろう。
今日ほどの論理性、科学性はなかった?のかも知れないがしかし、紛れもなく今日言う<UI計画>の先駆けと言えるものなのです。
大学の内外に「強い意志」をもって表したその「シンボル」に深く見るべき意味があるのです。
いま、考えると・・・。その錯綜する時代を読み取り行動した先輩の先見性にも強く敬服してもいます。

「科学者、或いは自然を愛する人に最も感動を覚えさせ、意義の深い言葉は二つ、1つは宇宙であり、もう1つは生命です」とノーベル賞学者江崎玲於奈氏は述べています。
「宇宙」と言う言葉は、実は紀元前2世紀、中国前漢の学者、劉安が著した淮南子(えなんじ)という書物にはじめて出てきます。
「宇」は天地四方。四方の果て、心の大きさを、「宙」は無限の時間。往古来今、虚空などを意味しますので「宇宙」とは空間的かつ時間的な無限の広がりを意味します。
ところで、この宇宙は膨張し続けていることが観測から分っており、過去にさかのぼること150億年前の大爆発(ビックバン)によりこの宇宙が創生されたことになっています」と・・・。
読売新聞、「全体を俯瞰する知識」という論考'99に見た記事です。
思うに、20世紀の初めに宇宙論の枠組みを与えたのがアルバート・アインシュタインでした。「空間」と「時間」を統一的に取り扱う「相対性理論」であり、これにより物理的な世界観が革命的な飛躍を遂げたといわれる時代でも有ったのです。
それらの強い刺激が芸術の先端を走るものに強く影響し、壮大な宇宙の「時間・空間」を捉えたイメージが結実したもの、シンボルとしの「カタチ」を意味しているものでしょう。

・・・・・・・・

世界を一つにし、国家を背に競い合ったオリンピックが終わりました。
世界の国旗の中でも、ひときわ鮮やかに映る日の丸 --- 日章旗を様々な感慨を持って見上げる選手たち・・・。
一人ひとりの「輝く瞳」が今も私の目に焼きついています。
多くの感動!を与えられました。
夏季休暇、研究、調査、雑務・・・。そして昼夜の観戦!
私の生体リズムはまだ狂ったままですが・・・。
(31・8/2004 記)





清水教授のデザインコラム/連載 - 26(7/19/2004)

取り敢えずは自分!自分の能力を研ぎ澄ますことだろう。
20XX年の「軽井沢セミナー」が始まった・・・

 20XX年、第5回 軽井沢セミナーが始まった。
参加者は例年どうり1年から4年までの100余名・・・。大学院生も3,4名が参加していた。
博士課程の1人はそのことを「博士論文」に纏めるのだと張り切っている。

各自がテーブルの周辺を整えるとおもむろに取り出したモバイルを卓上に置く。
皆と声を掛け顔を合わせることもなく発表されたばかりの「テーマと条件」を打ち込む・・・。
今回のテーマについての「解答」をアウトプットするのだ!
『その可能性はおおよそ15、983コデス』
「ウウ〜ン、じゃー取り敢えずその中から上位の100コほどをアウトプットしてみるか」
『ハイ!分りました、おおよそ40枚になります』
「40枚・・・! ところで、『アイデアも多いほど良い』と言っていたな」
「ウウ〜ン、ギリギリだなァ〜、じゃー200コ程にしとくか・・・。」
「80枚かァ・・・」
「まあ良いだろう・・・。アウトプット!」
『了解! アウトプットに23分掛かります・・・』
「取り敢えずこの中から1コを選んで4枚にプレゼンだ!」
「200コかァ〜、結構あるなあ〜・・・」
「条件は・・・」
「機能的で使いやすい・・・」「何だ、どういう意味だっけ?」
「『機能的』って何だっけ?」
「ものの働き?。良く分らンけど・・・」
「ま、いいッか! どうせコンピュータがやるンだからァ・・・」
「これか? それともこれぇ〜?」「これもあり?かァ・・・」
「ウウ〜ン ヤバイ! 分らン! こんなに有るんだ!」
「考えるとイライラする、もう!」
「そのシーンが浮かばないんだから、決められないよ!」

「そうだ! 鉛筆だ!」
「20年前には結構流行ってたらしいな〜」
「その為に1本持っていたっけ・・・」
「転がして決めようッと!多分どれも同じだろ・・・、分らんけど・・・」
「転がして数を出しても面倒だから・・・。そうだ!目をつぶって1枚を取り出して・・・」
「その1枚に鉛筆を放り投げて選ぶかァ・・・」
「ァ、コレかァ!」
「いいのかな〜、考えても分らん! コレだ、コレにしようッと・・・」
「しかし、待てよ!」
「こんな事で苦労するくらいなら・・・。コンピュータに1コを選ばせたらいいんだよ!」
「そーだよ、ナーンダ簡単なことを忘れてたな!」
「ウウ〜ン、分らんがコレだろう・・・。コンピュータが選んだんだし・・・。
 間違いないッ! 俺より確かだよな・・・」
「プレゼンは4枚かァ〜」
「レンダリング?手描き?何時もの授業ではCGなのに何故ェ?・・・」
「最近、描いた事も無いしナー」
「レイアウトを考え、レンダリングはなるべく大きくなんて・・・。
 そんなこと言ってた先生がいたらしいけどナ・・・」
「『美意識』を持って、『手を使って考える』なんて事もネ!」
「手で考えるって? そんなこと出来ねえよ・・・」
「『美』って? みんなの勝手じゃん、関係ないよ!」
「ところで『レイアウト』って何だっけ!」「何でそんな面倒くさいことやんなきやァいけないんだよー」
「もう出来ちゃったな〜。大分てこずったけど、こんなンでいいかッ!・・・」
「描けないし余り描いた事もない。必要ないもんナ! いまどきCGでやればいいんだから・・・」
「3泊4日など長すぎるよナァ・・・」
「しょうがない、時間まで2,3日ある」
「昼寝! 散歩やショッピングと行きますかァ〜」
「初めの頃のセミナー、なんであんな苦労をしてんだ! ご苦労なこった!」 
「あんなバッカ見たいに頑張って、要領悪いよな・・・」
「最終日の朝7時が締め切りだなんてョ・・・」
「面倒だから講堂に並べて出かけよう・・・」

「オイ、オイ、オイ・・・」
「もう皆、出してるよ〜」
「こいつは84枚枚、こいつ44枚・・・」
「ウワー、こいつ頑張ったナー444枚・・・。さすが負けん気・・・」
「ところでどんなデザインだ?・・・」
「あれッ!俺と同じだ!」
「あいつは・・・、同じ?・・・」
「アレッ!! 同じだョ・・・、皆!」
「と、言うことは間違っていなかったと言うことだよナ、俺・・・。」
「良かったァ〜、皆と同じデザインで!?」

 取り敢えず自分!自分の能力を研ぎ澄ますこと・・・

「来年のセミナーは日帰り?」
「うん、多分ナ・・・」
「先生だけが行って俺達はデータで送れば・・・」
「先生が軽井沢で受け取る・・・?」
「コンピュータがデザインをしてくれるんだから同じものを送っても仕様がないんでは・・・」
「それもそうだょなー手描きのレンダリングなんて時代遅れだし・・・」
「無駄だよね、時間!もっと楽に出来るのに・・・」
「誰か人数分を送ったら?」
「そうだよ、何も皆で苦労すること、ないじゃん!」
「皆んなが、1番を選ぶから、同じになるんだシィ〜」
「違う順番を選ぶようにしたら・・・」
「1番を外すとみすみす1位にはなれないしナー、辛いところよ!」
「コンピュータ時代にこんなセミナーかょ〜、やめたら・・・」
「意味無いじゃん!うちらの大学遅れてるよなー」
「なんで、いまもやってんだ・・・??」

「それより・・・。コンピュータでデザインなんて・・・」
「誰でも出来るんだヨネ?、小学校からヤッテんだから今は・・・」
「俺たち、コンピュータに頼っているだけでは駄目だよネ〜、きっと!」
「プロのデザイナーになるんならネ!」
「コンピュータやロボット・・・!! しかし、人間が何をやればいいんだ!」
「何が出来るんだョ!!」
「取り敢えず、自分!自分が持ってる能力を最大限に生かすことじゃないのか・・・」
「コンピュータやロボットに負けない能力? 俺が・・・」
「そーダヨ、その『能力』を使わない、だんだん駄目にしてるンじゃ〜」
「そう言えば、ぜーんぶコンピュウター・・・」
「自分で『考える』なんて思わなかったもんナァ〜、面倒くさくて・・・」
・・・・・・・
「おお???い、おまえ、大丈夫か! 寝てて・・・」
「・・・・? もう出したはず・・・。アレ夢を見てたんか!ヤバア・・・」
「今夜も徹夜、頑張るぞ〜!! 締め切りは朝の7時だからな・・・」

(30 june 2004)


追伸:「自分を知る」ために学ぶこと・・・
 コンピュータの革新はまさに時進日歩?一体どこへ向かうのか、どこまでやらせるのか・・・。
人間のもつ好奇心は未知へ向かう・・・。
ただ何よりも過渡の自由、国・企業間競争の果てにはどの様な生活の姿が現われるのか・・・?
「より良い生き方」を求める人々の期待感・・・。しかし、それ故の不安も大きいのだ!  
この事は、何人と言えども確かには予知出来ない未来の世界だから・・・。
勿論、その情報化社会へはまだまだ緒に就いたばかり・・・。壮大な人類史の過程では僅かに1点の刻みを印したに過ぎないものだろう。

「20XX年の軽井沢セミナー」は、そんな時代の兆候を夢の中に比喩したもの・・・。
辻褄が合わないことも夢、許されるのではという計算もある。
「筋力に代わる機械」、「知力に変わるコンピュータ」という図式に何か教育自体の、人の退化の予兆を見ているからである。
20XX年の夢には「学ぶ」こと、自ら「考える」ことをしなくなった学生、知力を失っていくものの心の機微を表現し切れていないが・・・。
ある用途、目的のためには多分、はるかにコンピュータは優れている。そのことは明らかだろう。
しかし、人は人間として持てる能力を、たとえ効率は後れを取ろうとも「学び」、「考え」、「決断し」、「行動する」生き方が重要なのである!!

ところで最近、「手で考える」と言うことを「遅れている!」と考える人が多くなってきた。
「スケッチ」もいらない、「図面」もCGで良いのだと言う。
まして、「モデリング」などとも言うのだ・・・。
そんな短絡な発想がデザイナー感性のみならず、人間としての能力を失わせている。
教育は企業的な効率を求める事ではないからだ!
人間という「生体」は、あらゆる刺激を受けて思考力や感性を鋭敏にし、熟慮し得る知的能力を完成させている動物であることを忘れては無いのだろうか・・・。

「孤族化社会」の中での情報生活の浸透は目的特化した偏向教育と重なりまさに「バーチヤル新人類」を生み出す「素」になっているのだ!
自分が自分の為に求める・・・。その「意志」が学ぶ動機として何よりも重要なのである!!
ただ、与え続けることが教育だと思い込んでいる「マニュアルセンセイ」が増えている。一方、その事を上手くやり過ごし、ただ逃げ出すことに汲々としている学生が更に増え続けてもいるのだ・・・。
夢の中でのコンピュータ、ロボット依存症の軟弱学生は夢の中に描くだけにしたいものだ!

(19 july 2004 記)