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清水教授のデザインコラム/連載 - 40(9/30/2005)

愛・愛知万博(愛・地球博)が終わって・・・

 テーマ「自然の叡智」「人類と自然の共生」を考えることを目指した今世紀はじめての万博は9月25日、盛況の中で閉幕した。
何よりも閉塞間のある中部経済圏に活力を呼び込みたいと言う動機が大きいものだった。
1500万人の集客を目論む、がそれでも赤字覚悟のスタートであったと聞いている。
しかし、開催185日間には予想を遥かにしのぐ2200万人超の入場があった。
1日にはほぼ12万人が入場した計算になる。
赤字どころか1兆3千億もの純益、中部圏の経済効果は極めて多きいものであったと報告されている。興行的には大成功だったのだ!
・・・・・・・
毎回、数万人の行列が開門を待ち、なだれを打って目指すパビリオンへと走りだす・・・。
人気パビリオンの前では、またまた数時間の行列・・・。
入場者の多くにとっては難行苦行の見物になる。
百数十回も来場したというお年寄りから数十回の若者まで・・・。
そんなリピーターには数時間の行列も、そのつもりになれば結構楽しめるものだろう。
しかし、多くの入場者にとっては僅かに1日か半日で数時間もの行列だけで終わるわけにはいかない。
人気パビリオン、個別のパビリオンを諦めて広い会場をただ歩き回ることになる・・・。

限られた時間、疲れ気味の体力、多大な費用・・・。
そのいずれをも消耗しての見物でもある。
より多くを見たい、と思うものだが・・・。
何しろ行列のない所を探すことは至難なのだが、歩くことで何かは見ることが出来ると・・・。
ただただ不満、疲労感のみが大きいものに・・・。それが万博?
・・・・・・・
ところで・・・。
そのパビリオン、全てを覆い包むのではなく中の様子を多少なりとも見せる工夫は出来ないものだろうか?
その一端でも見ることが出来れば、多くの入場者にもそれなりの満足を与え、訪れた多くの人々の記憶に残るものになるのでは・・・。
勿論、並んでも入場したいと思わせる動機にもなる。
それこそが万博の<本旨>となるものではないのだろうか!

万博不要論が聴かれる中、新しい時代の「在り方」「見せ方」が考えられねばならないのではないだろうか。
愛知から「よりよい都市、よりよい生活」をテーマに掲げた2010年の中国・上海に引き継がれることになる。

                          (30 Sept./ '05 記)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

万博メモ:
万博は1851年、ビクトリア期の技術力・機械テクノロジーを結集し、国威を諸国に顕示する目的でロンドンのハイドパークで初めて開催された。
ガラスと鉄による建物・クリスタルパレスが有名であらゆる国の生産品を展示するためでもあった。
1928年には万国博覧会条約がパリで締結された。
一般博(人類の活動で二つ以上の部門において達成された進歩を示すもの)と特別博('75沖縄国際海洋博、'85筑波・国際科学技術博など)と大きく二つに分類され、5年周期で開催すると定めている。
我が国は '65年に加盟し、'70年に「日本万国博覧会(大阪万博)」を開催した。
'64年には第18回「東京オリンピック」が開催され、東京?大阪間の新幹線が開通していた。また、GNPを世界2位へと押し上げた「モーレツ社員」が流行語となり「カラーテレビ」や「クーラー」、「マイカー」が新三種の神器といわれた時代・・・。
まさに国威発揚、産業振興を目的としたものでもあった。
「自然の叡智」を、「自然との共生」をテーマとする今回の万博は'97年にBIE総会で愛知県瀬戸市に決定していた。
しかし、予定された「海上の森」には絶滅を危惧されるオオタカの営巣地が確認され急遽主会場を近くの長久手に変更せざるを得ないというハプニングもあって、時代性を垣間見せるものとなった。





清水教授のデザインコラム/連載 - 39(8/31/2005)

1/fゆらぎ・体に響く心地よいリズム・・・・

「台風は・・・それた?」
ふっと気付くと雨音がしない・・・。
先ほどまでの激しい雨が止み、部屋のの窓から見上げる竹や欅(けやき)がその動きを止めていた。
束の間の静寂、嵐の前の静けさらしい・・・。
しかし、台風14号は刻一刻と関東・首都圏に接近しているらしい。

チャンネルを戻す・・・。
ここ数日のニュースは繰り返し混迷の選挙戦を伝えていた。
・・・・・・・・・
また雨音が激しくなってきた。
右へ左へと大揺れに揺れる竹、「ゆっさ、ゆっさ」と揺らす欅の巨木・・・。
「いよいよ関東圏への接近か!」

自然にある刻、一刻の変化・・・。
自然の営み、そのリズム・・・。
風・・・・
雨・・・・
虫の声・・・・
木の葉のゆらぎ・・・・

人は様々な自然現象に心和ませ、癒されてもいるのです。

人が癒され心地よく感じる自然界のリズムは、ばらばらな様に見えても実は周期や、振り巾に共通した法則性があると言われます。
気紛れのように見える動きにも、数学的に定式化したリズムがあったのです。
それが「1/fゆらぎ」。
ちなみにfはfrequency(周波数)の頭文字から取ったもの・・・。
簡単に言うと、「大きくなったり小さくなったり」、「強くなったり弱くなったり」・・・。一定で単調ではないリズムを指すもの・・・。
私が始めて耳にしたのはロボットが多少話題になり始めた頃・・・。2足歩行ロボットが左右に本体を傾けながら一歩一歩、歩を進めるレベルだった。
工学界に「あいまい学」が言われ、「カオス」や「複雑系」が報告されていた。
当時は「癒し」効果と言うよりも、工学的設計に「遊び」としての「1/fゆらぎ」が必要なんだと言ったことだった。
人はそのリズムを感じると心地よいと感じる「アルハー波」が現れる事が分ったのはその後の話だろう。

「効率」と「生産性」故の直線や直角で構成された都市、複雑に交差する人の関係 ・・・。IT時代の「テクノストレス」とも重なる・・・。
いま、「癒し」が人々の主要なキーワードにもなっている故でもあるのでしょう。
「1/fゆらぎ」は人の「心拍のゆらぎ」、生命体と共振することが分ってきました。その理論は電柱や街路樹の配置、衣服のパターン、ポスター、玩具、製品などにも応用され実験されてもいるようです。
・・・・・・・・・・・
ところで・・・・。
クラシック、特に「モーツアルト」の曲にも同じ効果があり音楽療法としての効果が有るのだとか。
その曲を聴くと免疫力が2・5倍に増え、自閉症や聴力の回復に効果を上げている。カルフォニア大学の神経生理学者ゴードン・ショーによる実験では知能指数が8〜9ポイント上がるのだと報告している。モーツアルト以外の曲ではその効果はなかったのだとか・・・。
トマトに聞かせると甘みがまし、乳牛に聞かせると美味しい牛乳が出来るのだという。
若い頃、それらしく見栄を張って聞きかじったクラシック・・・。
特に、モーツアルトの「交響曲 40番」やモルダウの「わが祖国」には何故か魅せられ、まるで指揮者? そんな気分で聞き入り感動していたことを思いだした。
いま思えば、人を魅了する「リズム1/fゆらぎ」に素朴に反応し共鳴していたと言うことだろう。
久しぶりにモーツアルトを聞きリフレッシュ、大脳のオバーホルをしたいと考えている。
・・・・・・・・・

追伸:
気になる情報、ビデオを撮りためてもなかなか見返す時間がない。
もう、数年前になる? 日本テレビで放映した「超サイエンス:モーツアルトの『軌跡』」がたまたま眼に止まった。
物理学者アルバート・アインシュタインは「その音楽は宇宙にかってから存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ!」といい、また、著名な評論家 小林秀雄は「天国の記憶のようだ・・・」とも絶賛している。

参考までに・・・。 
   3000Hz(高周波)以上首から上に響く特に延髄=副交感神経を司る
   800〜3000Hz腹部から首に響く
   800Hz(低周波)腰に響く
                (Aug.31/2005 記)





清水教授のデザインコラム/連載 - 38(7/31/2005)

緊張のプレゼンテーション・・・・

 スクリーンの映像を背に数名のプレゼンターが立つ・・・。
その一人一人の表情を読み取ることは出来ないがスーツ姿のシルエットがなかなか決まっていた。
発表はグループ代表によるメンバーの紹介、続いてプロジェクトにかかわる調査と分析結果、そして個人アプローチの発表へと続くパターンだ。

発表者は前に進み出てPC画面を覗き込み、原稿を読み上げる・・・。
暗がりの中、字ずらを拾うことに懸命で声のトーンが単調になりメリハリに欠ける。
勿論、視線を「聞き手」に向け、その反応を見るどころでもないだろう・・・。
また、自分の意見や言葉として十分咀嚼(そしゃく)していないための不安が、一層の緊張感を生んでいるようにも見える・・・。
しかし、上手くやろうとするための緊張感、不慣れの恐怖心や不安感は全ての人に共通する気持ちのたかぶり・・・。
「あがる」こと、人間としての向上心、自意識に繋がるもの・・・。

あがらずにプレゼンテーションを上手くやる!
そのために「十分な準備をする」ことが大切だと言うこと・・・。
集められた情報を自分のものにする。
自分の意見、自分の言葉になるまでの繰り返し。その繰り返しの「経験」と「慣れ」が必要だと言うことになります。

人前で「あがる」ということ・・・。
当然ながら、人間は人間に対して特に強く敏感に、そして複雑に反応するものであると言われています。
気心の分る仲間や知人には臆せず話せることも、相手が初対面であれば容易なことではなくなるのです。
相手の反応が分からないための時々刻々の「対応」と「調整」をしなければならないからです。
人と人のコミニケーシヨンは「ことば」だけでは無く、むしろ聞き手の眼に映る印象、つまり態度や顔付き、表情、言葉使い、手の仕草、服装、そして、発声の語調まで・・・。
むしろ、その方が大切だともいわれます。
人間が視覚的な動物であると言われる故でもあるのです。
相手の顔や態度を見ただけで、その人を判断し、値踏みしてしまう・・・。
つまり、聞き手の理性に働きかける「ことば」であっても、ひとは相手の印象や価値観で判断する「感情の動物」でもあるのです。
人は相手の態度を「読み」、感じ取って「反応」する。それに、また反応する。
良くも悪くも・・・。
その往復によって良い(悪い)人間関係はつくりあげられてゆくことになります。

プレゼンテイションを「上手くやりたい」「よく思われるものにしたい」・・・・。
人前であがらずにしゃべるという事は、知的であろうとする人間の全てに共通するもので、また苦手意識となっているものでもあるのです。
そのことを克服する、それはそれなりの努力を必要とするものなのです。

そのためのノウハウ書も多いが紙数の関係で、ここで紹介することは出来ません。
いずれにしても「そのための準備を十分に」し、自分なりの平常心を保つ方法を見出すことに尽きるのでしょう。

多くを経験し慣れること・・・。
あるいは、時に、開き直る!そのことで案外、「何とかなる」ことが分り、「何とかならない」こと、「失敗」であることも分る・・・。
成長する人間にとって受け止めるべき経験、それがまた大切なのです。

                    (30 July/2005 記)
・・・・・・・

追伸
:産学共同プロジェクトテーマ:「2010年の社会生活を予測・・・・」は、何より彼ら自身が生きる「いま」を十分に認識する事からはじまることになる。
デザインビジョンの獲得・・・。
常日頃からの問題意識が大切だ!と言うことです。

企業での「プレゼンテーション」は緊張した中でも、その「グループメンバーの連携」、「一生懸命」さが好感の持てるものであったと考えています。
勿論、全身で聴き、好意的な態度の「聞き手」であったと言うことにも感謝です。

「そのときの出逢いが人生を根底から変えることがある よき出逢いを」と言う相田みつをの言葉がある。
人間とは人の間と言う意味。人は人の関係によって人生を変えるとも言う。
クラスやグループの仲間、先輩後輩との寝食を共にした友人・・・。
人との出逢いを大切に・・・。
30年目の軽井沢セミナー、「デザインスキル」の習得と言う目標の他にそんな「人と人の繋がり」を意図したものでもある。
その繋がり、更に世代を超えたものにしたい!とも考えている・・・。   

                     (31 July/2005 記)




清水教授のデザインコラム/連載 - 37(6/30/2005)

作家五木寛之氏は「ロスト感の喪失こそ今の日本社会だ!」と・・・

ITが確実に人々の中に浸透し、わたしの周辺でも殊更に意識されたものになっている・・・。
勿論、地方の町や村、そして世界の情報の多くを眼にすることが出来る時代がそうなんだというわけなのだが・・・。
しかし、その進展は我が国の少子高齢社会の中で能力主義という一元的な価値観によってヒエラルキーの崩壊を生み、世代を繋いで受け渡されるべき知恵と生き方の伝承を失なわせ寸断してしまったのだ。

それら、ひと社会の仕組み・・・。
その底辺に在る見えざる連鎖反応が何か不思議な現象を引き起こしているのだ。
そう思える出来事が余りにも多いように思う。
これまでには考えられない犯罪が其処ここに起き、理解され難い異常が若い世代によって生み出されてもいる。
恐怖感や罪悪感をすら感じないゲーム感覚の衝動と単純さなのだ。

これまで私が受けたショックは精神的なダメージはあっても理解できるものだった。ひとの道、神を畏れる心がその根底に見えるからだ。
今の大人たちは、幼時より何かにつけて「バチ(罰)が当たるぞ!」と親に言われ、近所の老人に怒られた。
ことの善悪は、ことあるごとに教え込まれていたものだったのだ。
しかしいま、まさにIT化の中に育った人々の中には大脳を構成する神経細胞をも麻痺させ溶解させているようにみえる・・・。
「人がもつ感情」を失っているのだ。

もう十数年も前になるのだろうか・・・。
名古屋での「世界都市産業会議」???21世紀へ向かう中で新たな情報産業の可能性を探るものだった・・・。
「所詮、ひとはバーチヤルリアリテイの中で生きることは出来ないのですから・・・」と笑顔で話した研究者の言葉。
「そうなんだ!」と、うなずき共感した気持ちはつい最近まで私の脳裏にあった。
しかし、いまはそのことを疑っている・・・。
ゲームソフトから抜け出せない若者がいる。
現実の夢に破れ、ゲームのキャラクター、自分に都合の良い従順な女性と脳内結婚し子供をつくるのだという。
望む理想の脳内家族の誕生!宇宙食?アキバ系の桃源郷・・・?

ここ数回のコラムを書いているとき・・・。そして理解し難い事件の重なりに触れて、何か不思議なものを感じていた。
そういう思いを持ったとき、そのような内容の記事がおのずと眼に飛び込んでくるもの・・・。
丁度、デザインアプローチでキーワードを与えられたときのように・・・。
これまでにも幾度となくその様な経験をしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 6月2日の読売新聞夕刊には作家 五木寛之氏の「人間味失うデジタル化」という文字が眼を止めた。
中高生記者のインタビューに答えた記事だった。
「ロスト感の喪失こそが今の日本社会だ」という。その言葉の意味が分からないのだとか・・・。

・・・・五木さんは「ロスト感の喪失」という言葉で今の日本を表現していますが、これは何を意味しているのですか。
「たとえば、悪質で信じられないような事件や、大事故が起こっても人々は余り大きなショックを受けなくなったような気がするんです。今は、いろんな信頼が薄らいでいる。『信頼が崩れ去る』ことそのものがなくなっています。『まあ、そんなこともあるかもしれないな』というふうに。世の中をどこか冷めた目で見ている。
ある意味では、無感動で、心がプラスチックみたいに・・・。それを僕は喪失感の喪失、ロスト感の喪失と言っているんです。本当に失いたくないものを、今の人たちが持たなくなっているのではないでしょうか」

・・・・その原因は何だと思いますか。
「世の中がだんだんデジタル化されているでしょう。能率が上がり、便利になっている。しかし、一方でどんどん人間味を失っていく家族とのだんらんや、友情とったものがだんだん薄れている。問題なのは人と人とのつながりを失いたくないという気持ちがなくなることではないでしょうか」

・・・・では世の中で必要とされているものは何でしょうか。
「たとえば、阪神大震災の時、ボランテアの人たちが活動して、感動がありましたよね。経済的破綻とか、大凶作とか言う刺激モがあって、人々が何かを失って初めて本当に深い愛をしると言うことがあります。本当に悲しんだことが無くて、本当に喜ぶことは出来ない。その存在が永遠で無いからこそ、惜しいと言う気持ちになり、それが愛する事になるんです」

・・・・ところで夢を持てない子供が増えていますが、どう思いますか。
「将来の夢があって、本人は一生懸命努力を続けていても、どうしてもダメと言うこともあります。才能だって恵まれている人と恵まれていない人がいるでしょう。
それは仕方が無い。運と言うものです。
人間とは不平等なものです。だから何か夢を持っている人に、強く願えば必ずかなうとか、そういうことは言えませんね。夢に保証を求めてはいけません。それよりも、夢を見ることが出来る、と言うのもひとつの才能、個性なんです」

・・・・独特の考えのように思いますがどこからそのような考えが生まれてきたのですか。
「それはやはり僕が、努力いかんにかかわらず挫折したことがあまりに多かったからでしょうね。朝鮮半島で敗戦を迎えた僕は難民になっちゃった。
大きな歴史の中で、国の運命と共にほんろうされた後遺症かもしれません」

・・・・私たちに、メッセージなどはありますか。
「あまり他の世代のことについてとやかく言うつもりはありません。
ただ、挨拶だけはしっかりしてほしい。相手に敵意が無いことを示すから。
あるいは、ご飯を食べるときに『いただきます』と。相手が誰と言うのでもなく、感謝の心をもって食べるということです」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
インタビューの終わりに「独特の考えの様に思うのですが・・・」と、言う中高生記者、その興味深いコメントも記しておきたい。

・確かに夢が無い若い人が多いかもしれません。しかし、そんな中でも頑張っている人がいることを、大人も忘れないでほしい。私は夢を見つつも現実も直視し、きちんと将来の夢をかなえたいと思います。(中2 生能菜優)

・「心のデジタル化」。信じたくないけれど、当てはまる気がします。人とのつながり方を改めて考えさせられました。五木さんの意見は、大半の大人の意見と正反対でとても新鮮でした。(高1 江原桂都)

・五木さんは「夢はどんなに願ってもかなわないこともある」といいます。はっきり物事を述べる五木さんに、私は励まされました。夢をかなえるには、才能と努力が必要。私は私を信じて生きていこう、と考えさせられた取材でした。(高2 峰ゆかり)

・五木さんは「人にはそれぞれの経験があって、そこから得たそれぞれの考え方がある」とおっしゃいます。五木さんの独特な考え方をお聞きした、貴重な取材だったと思います。(高2 足立治朗)

若い記者、何れもが五木さん独自の意見だと思っているようだ。
しかし、私には理解でき、強く共感されるご意見であったと思っている。
まさに、その渦中にいる若者には「そのこと」が見えないと言うことなのだろう・・・。

・・・・・
ちなみに、五木寛之氏のプロフイールを記しておきたい。
1932年生まれ、早稲田大学文学部を中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。『さらばモスクワ愚連隊』『生きるヒント』翻訳に『かもめのジョナサン』『リトルターン』など、吉川英治文学賞、菊池寛賞なども受賞。

                (June 29/2005 記)



清水教授のデザインコラム/連載 - 36(5/31/2005)

日本経済復興の起点となるのだろうか?アキババレー・・・・・

 思い立って秋葉原を歩いた。
秋葉原の電気街からアキババレーへの兆し、その進捗状態を見たいと思ったからだが・・・。
改札口を出ると、暫し広がる商店街のビルを見上げる・・・。
そこからまた、雑多なパーツを詰め込んだ小間を連ねた昔ながらのアーケードをキョロキョロと眺めながら中央通りへ出る。
もう、十数年振り?記憶の回路は徐々にかってのコースを思い起こさせていたのだ。
そこを右折、山際電気方面に歩き始める・・・。
相変わらずの人ごみに連休を楽しむ親子連れが結構目に付いた。
その中ほどにアニメ風の少女が二人、行きかう人並みを背に幾つかのカメラに応えて笑顔のV字ポーズをとっていた。
ゲームソフト店の店員なのだろうか?そんな華やいで怪しげなイラストがべたべたと張られた店がバーチャルリアリテイ空間を演出しているのだろう。
これも現在のアキババレーを特徴付けるもの・・・。
・・・・・・・・
ところで、私がこの電気街に来るようになったのはデザインを学び始めたころ・・・。
実習課題の資料を集めるためだった。
勿論、ITなどはまだまだかけらほども感じさせない頃のはなしだ。
上野のアメ横やこの街には戦後の闇市を連想させる雰囲気があり、何だかワクワクさせるものもあった。
ラジオキットやその電気部品、分からないが細々とした品物類を棚一杯に詰め込んだ店がならび、ラジオやテレビのダンボールが山積みになっていた。
そんな街もやがて我が国の電化ブームに乗って成長発展していくことになる。
近代化され、電化された欧米の家庭が人々の夢を触発し、未来を示唆するものであった。
煩雑な家事の合理化、そのための電化は目標となり、何よりも我が国が生きる工業化の途を目指すために・・・。
冷蔵庫や掃除機、洗濯機という3種の神器が50年代以降の我が国の電化ブームに火をつけ消費を拡大させていった。
庶民の夢は白黒テレビを居間に置き、洗濯機で家族の衣類を、そして、冷蔵庫で冷やしたビールを飲むことだった。
神武景気の中で欲望は爆発し様々な電気製品が生産され世界へ向けて輸出されていった。「安いだけの粗悪品」の扱いは不満だが造れば売れてしまった。
欧米の製品に習い模倣すること、変形することがデザインでもあった。
製品意匠(デザイン)が何であるのか、考えねばならない時代だった。
発展途上国日本がまさに、まさぐるように工業化の途を走り始めた。
我が国の家電産業の盛衰、軌を一つしたこの街には製品生産に取り組む技術者や営業マンがしばしば訪れるところでもあった。
様々なキットやパーツを選び、他社製品や輸入製品と見比べながら製品のアイデアをより安く、そしてよりよい物を造ることを考えていた。
当然、この頃のデザイン実習にも「家電製品」や「照明器具」などのテーマが多く、この秋葉原はその調査や資料を集める拠点にもなっていた。
他には車、食器、家庭雑貨も興味の対照だったろうか・・・。
やがて山際電気や山田照明には本来の製品に加えて洗練されたヨーロッパの什器、小物のコーナーが出来ていた。
デザイン先進国、特にイギリス、ドイツ、そして北欧諸国の洗練された造形、精度の高い加工技術には強く惹かれた。
デザイン学生にとってはそれらを手本に、触れ、感じて目に焼き付けたものだった。

勿論、モデル試作の材料、つまみなどのパーツ類は兎も角、自分が使う家電小物などを買うのは、そこここに在るめぼしい安売りの店を歩き回った。
1つを買うにも結構、見比べ、選んだことが結果としてはよい勉強にもなったのではと思っている。
・・・・・・・・
小売業の盛衰は激しい・・・。やがて、地の利がよい場所にヨドバシカメラやビッグカメラ等の大型店舗が出現、見る見るうちに店舗を増やしていった。
1店舗での圧倒的な数量、カメラも電気製品も・・・。
私自身の秋葉原詣でも終わることになった。
長引く不況期の中、時代はマルチメデイアからIT時代へと変容し、シリコンバレーのニュースが流れる中で秋葉原バレー計画の話を聞いたような気がする。
もう数年も前の話だ・・・。
アメリカのシリコンバレーに倣って渋谷、札幌、などとその拠点づくりが意識されていたのだ。
青果市場跡地の再開発が進み、高層ITビルが建設されていた。
山手線を挟んだ位置に筑波研究都市と結ぶ新線がその建屋を見せている。
開通は真近だとか。
IT先進国としての目論みはすでに計画完成年次を向かえたと言われる。
このアキババレー計画が順調であることが、我が国の経済復興の兆しとなるものでもあろうと期待している。

                       (May 31/2005 記)

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追伸:ITの社会への浸透はこれまでに在った人間関係を縦横に分断し、親密さやいわゆる人として極めて重要な感性を喪失させている。そう思える出来事が余りにも多いようにも思う・・・。
これまでの考えからはとても理解出来ない犯罪、人間社会の運用の異常が生み出されてもいる。これまで心に受けるダメージはあっても共有出来るものだった。
しかし、今はとても理解し難い・・・。
ITの中で倒錯した感性、大脳を構成する神経細胞をも溶解させていると見える症状なのだ!生の感性を喪失しバーチャル世界に浸る生き方にIT社会の大きな陰を見る事にならねばよいが・・・。
不思議な生き物・人間のITとの関わりの究明もまた急がれねばならないだろう・・・。

                       (May 29/2005 記)