■清水教授のデザインコラム/連載 - 90(12/29/2009)
アジアの中の日本・・・・
国際社会で日本が生きること
日本はアジアではない・・・。
昨年、世界的な規模で行われたという、「国際アンケート」からはそう読み取れるのだ。
世界の人々の平均的な見方では、日本は欧米なのだ。
私にとっては考もしなかったこと・・・。
地理的なことばかりではなく、精神性や社会的な発展の違いをさしている、と言うことなのだろうが、しかし・・・。
既に近代化を果たしていた西欧諸国からは、Far Eastと言われるこの地域、その中でも小さな国が、なぜ、先進国と言われ、世界トップレベルの科学技術や経済大国になったのだろうか?
“サル”と言われてまでも先進諸国に倣い、近代化を急いだのは、なぜだろう?
私自身もデザインを学びはじめたころからの疑問でもあった。
先進国に学び、向上心を持った人々によるチームが一丸となって協力、改良・改善する心、その姿勢はいまも持ち続けている・・・。
日中の歴史・文化の研究家としても著名なE・ライシャワー('61〜'66年駐日米大使)はかって、「日本の近代」こそが世界史上でも、「後進国」から「先進国」にまで発展できた唯一に近いモデルだと絶賛していた。
しかし、確かにアジアに位置する日本、なぜ欧米なのだろう?
明治維新・・日本史要約・・・・
四方のすべてを海に閉ざされた国特有の地理的な環境、鎖国による閉塞感を打破したいと言う願望が人々の間に大きく芽生えていた。
また、天明、天保と続く大飢饉に、農村は疲弊し、人口の減少は全国諸藩の財政を窮迫させていた。 もはや、自然的な経済のみでは維持が出来なくなり、商品経済への移行、工業化への傾向が現れはじめたという江戸時代末期の兆候があった。
1859年、前年に結ばれた通商条約によって横浜は開港した。
1865年の黒船によるペリー艦隊をはじめ、西欧列強による日本への接近には、侵略されるのではと言う恐怖がつきまとっていた。
そのために列強諸国と肩を並べる文明開化が必要であり、東アジアの文化圏から抜けだす脱亜入欧の国家づくりが選択されたのだ。
15代将軍徳川慶喜が、朝廷に「大政奉還」(1867年 慶応3年)し、「廃藩置県」によって多くの武士は失業することになった。各地に士族の反乱が起き、「戊辰戦争」や「西南戦争」などの戦によって多くの武士が死に、12世紀以来700年も続いた「侍」は滅んだ。
明治新政府が成立し、『大日本帝国憲法』を発布する・・・・
明治天皇の即位。あわせて新しい国家体制を築くために江戸を東京と改め、日本の新しい政治の中心にすえた。
新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力と侵攻に対抗するために中央集権と欧米に倣う近代化を急ぎ富国強兵を目指すことになっていった。
また、1889年(明治22年)には、『大日本帝国憲法』を発布する。
当時、文章に明記された成文憲法を制定し、世界に示すことが主権国家、文明国としての証だったからだ。
ちなみに、その初めての組閣 総理大臣 黒田清輝内閣には本学の学祖となる山田顕義 司法大臣が。また、早稲田大学の学祖 大隈重信 外務大臣などが名を連ねている・・・。
いずれにしても、西欧列強に習い真似るしかないと、なりふりかまわぬもの、中華文化圏の伝統、そのすべてをかなぐり捨てるという徹底したものであった。
そんなことから、当時の心ない外国人には、日本や日本人を“サル”と陰口をされていた。
容貌が猿に似ていることもあるが、ヨーロッパをサル真似している民族、と言う意味だったのだ。
アジア諸国の中でも、日本だけが勃然として西欧化を目指し、産業革命の思潮に乗ろうとし、欧米列強からは、侵略すべきアジアの“身の程知らずめ”と嘲笑されていたのであろう・・・。しかし、日本人は生真面目な人種でもあった。
朝鮮をめぐり大国・清と対立し・・・・
1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。
当時の国力では財力、軍艦や装備、兵数などの全てにおいて清国の優位は歴然としていた。
しかし、だからこそ国民は一丸となり、がむしゃらに戦い、精神力によって勝利したのだとも言える。当時の兵士にとって守るべきものは「国家」。清がどれほどの大国であるかは理解できていないが武士道精神の胆力は備わっていたからだ。
アジアの大国を自認する 清からすれば、「たかが、にわかずくりの軍隊・・・」と、いかにも見下していたことが命取りになったのだ。
その戦果として以下の内容を清に認めさせている。
(1) 朝鮮の独立を承認する。1897年(明治30年)に大韓帝国として独立している。
(2) 遼東半島、台湾、澎湖列島を日本に割譲する
(3) 2億テール=3億1千万円の賠償金を支払う
(4)重慶・沙市・蘇州・杭州の市港を開く
(5)揚子江航行権を与える
(6)最恵国待遇を与えるなど ・・・
その結果、清の朝鮮に対する支配、東アジアの支配秩序は終焉したことになる。
しかし、遼東半島は露仏独の思惑からか三国の干渉によって返還させられ、その屈辱は代償3000万両を得ても、プライドを傷つけられた無念の思いを強く残すものになっていた。
この戦争によって侮れない日本として諸列強に強く印象付けるものになった。
清は敗戦を機にヨーロッパ列強の侵攻により分断、植民地化を加速させることになって行くことになる。
日清戦争で得た賠償金は、近代化の源泉となり「八幡製鉄所」(現新日鉄)創設の資金となったが、なによりも富国強兵を名目とした軍事費になっていた。
戦争は近代化の経済にも大きなもので、日本が「モノづくり」に大きく舵を切ることにもなっていった。
やはり、と言うべきだろう・・・・
大国ロシアもまた清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借し、また、シベリア鉄道やその支線を建設し南下政策を進めていた。また、清朝末期の排外的農民運動を口実に、ロシアは満州に軍隊を駐留させ利権を確保している。
日本はロシアの侵攻を牽制するために、1902年(明治35年)に日英同盟を取り結ぶことに。
当時、世界第一の大帝国として君臨していた英国が初めて同盟を締結したということ、しかも、相手がアジアの新興国ということでヨーロッパでは疑心の目を集めたようだ。
事実、極東の成り上がり日本をおさえ中国をものにしようとする思惑があった、と考えるほうが自然なのだろう。
その後、満州、朝鮮半島などの利害が対立した大国ロシア帝国を相手に1904年(明治37年)日露戦争が勃発した。
日本陸軍は遼東半島に上陸、旅順、奉天攻撃と圧倒的に物量が上回るロシアと一進一退の対峙を繰り返すなかで、東郷平八郎が率いる海軍は、無敵と言われたロシアのバルチック艦隊を全滅させたのだ。
その作戦参謀だったのが現在、NHK TVで放映中のドラマ、『坂之上の雲』で主役となる秋山真之だった。
(多少の脚色はあるにしても史実に忠実に描いたと語る司馬遼太郎の作品として、この時代を理解する意味でもなかなか興味深い・・・)
ロシアは辛うじて陸軍は維持していたが、無敵と言われた海軍力の大半を失い、国内での革命運動までもが起きていたために講和を望んでいた。
勿論、日本もまた、長期戦に耐えうる戦力はなく、ルーズベルト米大統領を仲介に講和に持ち込んのだ。
大韓帝国の併合を決める・・・・
日露戦争の終結後、1906年(明治39年)の「ポーツマス条約」ではロシアは日本の朝鮮における政治・軍事・経済の優先権を認め、清の旅順、大連の租借権や長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡することに。 また、北緯50度以南の樺太とその付属する諸島を譲渡し、オホーツク海やベーリング海の漁業権を日本に認めると言うものだった。(未だに解決しない北方4島の返還は、この前後にもある幾つかの条約解釈の問題でもあり、強い外交力を要するということだろう・・・)
しかし、日本の勝利は、当時の世界を驚嘆させた出来事であったろう。
白色人種の大国に対する、有色人種・小国の勝利であり、後進国独自の軍隊による覇権大国に対する戦勝は世界史上の意義としても大きいものであったと思われる。
「ポーツマス条約」で獲得した遼東半島南部(関東州)及び長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道(株)が設置された。
その後、第2次桂内閣が朝鮮併合を決定。1910年(明治43年)には日韓併合条約を結び大韓帝国を併合した。
ここに欧米列強と並ぶ帝国主義国家に。大国ロシアに戦勝したことは黒船の来航以来、侵略を防ぎ、目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成したのだ・・・と。
明治、大正、昭和、そして平成・・・・
しかしこの時代、覇権の拡大を競う諸列強の動きは収まることはなく、1931年の満州事変から、1939年の第二次世界大戦へと戦禍は諸国を否応なく巻き込んで拡大していくことになる。
1945年 敗戦・・・。
後進国から先進国へ。しかし、近代化の過程は闘いの繰り返であり、避けることができないものであったようにも見える。
しかしいま、その体験の反省は「戦争」を放棄することを決断した国民として、世界と誠実に接してきている。幾つかの国際的なアンケートからは、「よい」という日本、日本人に対する評価、経済や科学技術大国としての高い評価を得たものにもなっている。それらは明治時代を経て近代化した日本人の命を繋いだものであり、精神でもある。
そのことを忘れてはならない。
いまは、国家のためにと言う目標は、ない。
冒頭に記したように日本の「いま」がどの様な過程を経てつくられてきたのかを歴史に学び、次への目標を掲げてもらいたい。事実を繋ぐ歴史、その時代を知ることは、現在を知ること、未来をも知ることである。
歴史を学ぶと言うことは、そうした人間の在り方、生き方を考えることであり、混迷の中に自らの位置を確かめるものである。
新たな年の節目、自らの新しい時代への生きかたを捉えたいものだ・・・。
(12.29 /2009 記)
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メモ:
●『日本は世界でどう生きるか! 国際アンケートを読み解く』 NHK‐ETV特集
対象:世界・51ヶ国・地域:被験者53,600人 プロジェクトJAPAN(2008年11月〜2009年1月)NHK+GALLUP共同調査)
「アジアとの関係」「天皇と憲法」「経済と貿易」「軍事同盟」日本が近代国家として世界にデビューして行くうえで命運を握っていたと思われる国家づくりの柱をテーマにしたもので、ここには、「日本は欧米か、アジアか」、「強い経済力と言う言葉に相応しい」などのデーターのみを記載した。
「日本は欧米か、アジアか」と言う問いには世界の平均的な見方では、日本は欧米が24%、アジアが11%、どちらでもないが26%だった。国や被験者によっては、日本に対する関心や理解が少ないのではとも思われるが、日本自体のアンケート結果でも日本人は世界の中でもアジアだ、と言う意識が低いことにも驚いている。
◎地域別(%) アジア 西欧 ◎国別(%) アジア 西欧
東中央欧 10 20 ノールウエイ 42
西欧 9 31 フィンランド 40
北米 11 33 デンマーク 39
南米 17 15 ベネズエラ 27
中東 9 9 パナマ 22
アフリカ 13 22 シンガポール 21
アジア 12 21 日本 3 30
◎隣国(%)
中国 18 32
韓国 16 18
◎「強い経済力」と言う言葉に相応しいのは
アメリカ 50%
日本 46%
中国 37%
EU 33%
ロシア 22%
◎「技術革新と先端科学」と言う言葉に相応しいのは
日本 63%
アメリカ 46%
中国 35%
EU 27%
ロシア 21%
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●日本の時代区分による近代化
旧石器 / 縄文 / 弥生 / 古墳 / 飛鳥592-710 / 奈良710-794 / 平安794-1185 / 鎌倉1185-1333 /建武1333-1336 / 南北朝1333-1392 / 室町1336-1573/ 戦国1467-1573 / 安土桃山1573-1603
江戸(1590−1868)(278年間)鎖国政策・欧米列強の接近による危機感から維新へ
明治(1868−1912)(44年間)西欧化による富国強兵と国際社会への参加
大正(1912−1926)(14年間)欧米列強の圧力・第二次世界大戦
昭和(1926−1989)(63年間)敗戦からの復興・世界の経済大国への開花期
平成(1989− )( ) 文化成熟から爛熟期へ・目標の喪失・・・
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●『坂之上の雲』は司馬遼太郎の作品、NHKの3年に渡る大河ドラマ。
「まことに小さい国が、開花期を迎えようとしている・・・」と、冒頭のナレーシヨンからはじまる。「近代日本の黎明期、封建の世から目覚めたばかりの日本が、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米に倣って近代国家を目指し、『坂の上にたなびく一筋の雲』に例えたのだ」と言う。
作者・司馬遼太郎を通して、日本特有の精神と文化が19世紀末の西洋文明・文化をどのように反応し、理解したのかを知るためには最適の作品でもある、と云われる。
「描かれていることのすべては我が国史上の事であり、事実と確認できなかったことは描かなかった」ともいわれているから・・・。
近代国家としての日本を支えるために、青年たちは国家に命を託すことを名誉と思い、意気に感じ、夫々が学問や専門分野を目指す明治期の人間像を見ることができるものとして考えさせられる。
風雲急を告げる時代、欧米列強によるアジア侵攻の気配を背に日本の近代化を捉えるものとして極めて興味深いドラマだ。
小身の武家に生まれ貧しさ故に、お金の掛からない進学の道を探る秋山好古は師範学校を経て陸軍士官学校に進む。後に、フランス留学で騎兵を学び、日本に騎兵を作り上げ、日露戦争では最強のロシアコサック騎兵を破る。後年「日本騎兵の父」と呼ばれた。
その弟、秋山真之は、松山中学から兄、好古によって呼び寄せられて上京、帝国大学進学を目指し大学予備門(のちの一高)に在籍する。
真之はそこで、先に上京していた正岡子規と再会を喜ぶ。後に海軍兵学校に進む。東郷平八郎の下で連合艦隊作戦参謀として日露戦争における日本海戦で、あのロシア・バルチック艦隊に挑み勝利した。
正岡子規は、帝国大学文学部へ進み、俳句・短歌の革新運動を起こし日本の近代文学に多大な影響を与えた短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等。が、ベースボールを知ると熱中し、ベースボール用語を翻訳した。野球とした翻訳は友人だったと言う話が本当らしい。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」はよく知られている。新聞社を経て従軍記者に・・・。
●正岡子規の「人物採点表」によると、秋山真之は他人の批評をするに可もなく不可もないといった曖昧な態度はとらず、学才のある者にはひどくおどろき、たいしたことのない人物についてはひどくいやしめると・・・。「勇気」「才力」「色欲」「勉強」「負け惜み」の五項目で評価し採点している。
◎ 秋山真之を採点
勇気 70点 才力 85点 色欲 80点 勉強 60点 負け惜み 80点
◎ 子規自身を採点
勇気 70点 才力 90点 色欲 75点 勉強 50点 負け惜み 50点
他は負けても、「才力」では負けを認めない評価をしているところが面白い。負け惜しみも以外に強い・・・。