「なぜ働かないんですか?」とレポーターが問いかける・・・。
「ひとと話すことが苦手ですから・・・。めんどうくさいし、おもしろくないから仕事やめたんです・・・」
「おやが働いてて、いえもあるし・・・。生活に困ることはないし・・・」
「親に働かせて?居なくなったらどうするのですか・・・」とさらにマイクを向ける・・・。
「親が死に収入がなくなったら、働らきますよ!その時は・・・」
目を伏せ感情もなく答えるニートと呼ばれる若者・・・。
彼らは大なり小なりわが国の若者のいまの姿であるように見える。
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先日の読売新聞には『教育に関わる全国調査』(面接方式)でそのフリーター・ニートのネット調査なる報告が記載されていた。
「能力が無いわけではなく、家庭環境や学力にも問題がない」のだとか・・・。
「社会に対する消極的傾向は、学校時代の課外活動や外出範囲だけでなく外出頻度、友人関係でも見られた。こうした傾向は1度も働いていないものに顕著で、未就労状態が続くことにより社会と接する機会がさらに失われ、社会性の欠如に拍車がかかってますます就職から遠ざかるといった悪循環の構図が見えそうだ」という。
冒頭のインタビューに見るように「生きること」や「学び」「働く」意味を喪失した若者の無力感は、いまここにいる自覚をすら失っているように見えるものであった。
テレビやテレビゲーム、豊かさの中に錯綜する刺激的な情報波動は彼ら幼少年期のこころに大きな影響をあたえていることは間違いないことだろう。
その生活、環境の劇的な変化は過去のそれとは比較にならないほどのものであろう・・・。
個人として受容する情報の量や質も違いすぎる。変容に対応し得る家庭教育や学校教育がないことが歪をおし広げることにもなった。社会的責任を育む家庭の崩壊、人間関係の変化が人間として生きることの目標を喪失させたということなのだ。
最近、ひとは母親の胎内に生命を得たときからその精神状態、喜びや怒り、そして哀しさ、楽しさの感情をわがこととして共鳴する。
つまり、母親の胎内に居るときから人格が形成されていると考えると良好な家庭環境、そのバランスが問題なのだとも考えている。
ところで、渡部昇一上智大学名誉教授は社会的な悪平等によって我が国の「モチベーシヨン」が失われたことが大問題なのだという。
「戦後の日本は『平等』を正義と同一視する傾向があり、小学校の運動会ではお手手をつないでみんな一緒にゴールに入るということも行われている。そういう光景を美しいと感ずるような社会の雰囲気がつくられた。しかし、人は永久に小学校にいるわけではない。そのうち否応なしに世の中に競争があることを知らされる。その現実に耐性が出来ていないと『ひきこもり』となり、ニートとなる」という。
壊れやすいガラスのこころ世代、アキバ系やニートを生みだしたということも無関係ではないだろう・・・。
専門家すら読み取れない若者のこころのひずみ、自覚すらない行動が犯罪の連鎖をも引き起こしてもいるからだ。
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当然ながらその延長上にある大学も例外ではないことになる。
その兆しがある。
「自己実現」社会における目標の多様性、その可能性は個人としての確信、その意識を希薄なものにしているのだ。
茫洋?として見えぬ目標。多様な選択肢から選び出した「1つの生き方」に確信を持てないのだ。学ぶ心がそこに無いというのはそのためなのだ。
もともと最適を1つにすることなど凡そ考えられないこと、それが現実なのだが・・・。
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4月、新学期の「デザイン論」のはじめに意識して欲しいこと、として「意識すること」を白板に書いた。
「意識するとは、なんなんだろう・・・」そう、授業のはじめに問いかけたのだ。
まず自覚を促し、デザインをここで学ぶ!と言うことを強く意識させるためだ。
一瞬一瞬を意識あるものにしたいとも考えたからでもある。
また、「もの造り」と言うリアリテイーを持つことで人間性から遊離しがちな感性を取り戻す意識の覚醒を心がけさせたともいえる。
生の発想の確かさ、そして美意識がなにより必要なことなのだ。
その「こころ」を涵養し、そんなデザイナーが増えて欲しいとも考えている。
・いまここにいることを自覚し、強く意識すること・・・。
・挑戦すべき「夢」「欲望」はなに・・・。
・その為に自分を知り、過去から現在、そして未来の自分を考えること・・・。
・学ぶことの厳しさを理解し、楽しさも知ること・・・。
努力無くして、自己実現、自分の思いが叶うことなどおおよそ考えられない。
挑戦してこそ何かを感じていくもの、厳しさ苦しさに比例して喜びもまた大きい。
(May 31/’06 記)