ところで、私達は見えることは当たりまえ、なんの感慨も無く、ただ目を開いているだけでは・・・! ときに、そう思うことがある。
実は「そんなこと考えたこともないし見えるの、あたりまえでしょ・・・」。そう、言われてしまいそう・・・。
人間にとっては、特にデザインを考える上では「視覚」による情報は圧倒的に多いといわれている。しかし、最近は「見えるのに見ていない」、「まるで見えていない」のではという人が余りにも多いのでは・・・。
もう数十年も前の話になるが、私も「デッサン演習」の授業を担当していたことがあった。
デッサンを始める前に眼をつぶらせる。わずかに数分?だったが。
瞼の裏に光を感じるが何も見えない。このまま目が見えなくなったら・・・。
私自身は、そう想像しただけでも「ウワーッ」と言いたくなるような恐怖心にかられ、慌てて目を見開いたりしたものだった。
見開いた時の光のまぶしさ、目の前のものが殊更に新鮮に見えたものだ。
見えることが本当に有り難いとも感じたものだ。
そんな感謝の気持ち、見ることに真剣であって欲しいと考えての試みだった。
せっかく見えるのに、見ることを大切にしたいね・・・。
・・・・
「ヘアーメイク担当の若い女性からこんな話を聞いた。
『フイルムで撮った写真でないと印象に残らない』なぜならフイルムの写真からは空気感が見てとれるからだと言う。
見える状況にあるのと能動的に『見る』のは違う。
これはクリエターなど感性の鋭い人に限らず、企業の合併時にも如実に現れる。
企業文化の差をあぶりだすために、精神医学をもとにした世界共通の質問票がよく使われる。この中に、同じ絵を見せて何が描かれていたかを尋ねる項目がある。例えば一人は背景に並んでいた物体の数、もう一人は人の表情や色を答えるわけだが、回答の傾向が企業ごとに偏る結果がしばしば出る。順序から入る、調和を重んじるなど、視覚は思考の『癖』に縛られるのだ。
企業内の思考パターンで『見る力』を狭めていないか。
殻を割るにはオフィイスの外に飛び出し、視覚以外を全開にする体験を、異文化の相手と共有することだ。」
『46年目の光-視力を取り戻した男の奇跡の人生』(ロバート・カーソン著 池村千秋訳 NTT出版社)
「見る」ことの意味が逆説的に分る本なのだと三神万里子(ジヤーナリスト、キャスター)さんの読売新聞・書評の冒頭の文章だ。
数日前、その教訓としての「視覚以外の眼力を養え」という見出しが私の目を留めた。
私自身の日頃からの関心ごとだったからだ。
「幼少期に失明した米国人男性が、46歳で幹細胞移植という手術を受け、再び視覚を回復するという実話。
盲目時代の彼がどう人生を切り開いたかを追い、たとえ目が見えなくても『冒険心』と『好奇心』を頼りに生きるための挑戦を続けている。
大学時代には、先進国に留学したがる同級生とは逆に、彼が選んだのはアフリカだった。受け入れを断られるが、石積みを手伝って泥壁の村に住み込んだ。
危険だと反対されても独自の手法をあみだして障害者スキーの金メダル三っと世界記録をとり、卒業後はCIAと銀行で働いた。
結婚すると企業幹部の座を蹴って起業し、現在は発明家・実業家として成功を収め、幸せに暮らしている。
かれにとって「見る」とは、妥協よりも好奇心、怪我の心配よりも体当たりに身をさらし続けることで感覚を総動員し、考え抜くことだった。
人を見るとは、相手の情熱が何に向かっているのかを読むことだった。
視力を取り戻したとき、彼は本質の多くは既に知っていたと気付くのだ。
目が見えるようになりたいと思ったことは一度もなかったが、しかし手術をすることで視覚を得ることができるのだという。
数々のリスクがともない、命が脅かされ、想像を絶する結果が待っているかもしれない。
勇気、ロマンス、人間の視覚と脳のミステリーを見事に描き出した感動の実話。
しかし、この手術を受け、「見る」とはどういうことなのか、本当に『生きる』とはどういうことなのかを確かめようと決意したのだ。
手術後、視力が正常に回復しても、それだけではものを簡単に理解することができないということを知る。 主人公メイは幾多の苦難にぶつかり、挫けそうになっても「道は必ず開ける」と信じて生き抜く。そんなメイ氏を支える人々との心温まる交流を読むと、人は決して一人では生きていないんだな、と改めて思うのだ。
この書の主人公は見ることのできない恐怖心にめげず、「冒険心」と「好奇心」とを持って困難な人生に挑戦し続けている・・・。
もし、それが私だったら・・・。
絶望と恐怖に打ちのめされているに違いないだろうと考えると、その精神力に敬服し、「見えないこと」と「見えること」についての体験に考えさせられることだった。
主人公メイ氏は「モノを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている」のだという。
「物事は心で見ないと良く見えない、しかし一番大切なことは目に見えないものである」ともいう。
しかし「心で見る」が故に錯覚が生じることもある」という話には興味ひかれる。
ものを「見る」に限らず、「理解する」ことの全てについても言えることであり、文章は、その行間をイメージして読むことでもあるからだ。
広辞苑によると「見る」とは、「目によって物事の存在や動きを認識すること」。「よく注意して観察すること」などとされている。
見ることは「視覚」、目を受容器とする感覚。光のエネルギーが網膜の感覚細胞に対して刺激となって生じる感覚。「視感」と同義。
つまり、目の働きは脳の働きに連動しているということであり「脳」で見る、理解すると言うことなのだ。
当然ながら、人が見て理解するということは「視覚」だけではない。「触覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」など、 いわゆる五感を働かせ、空気感を見ることも含めた全身で見るということでもある。
主人公メイ氏は「モノを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている」のだという。
「物事は心で見ないと良く見えない、しかし一番大切なことは目に見えないものである」ともいう。
私達も様々なものを見るとき、色合いや形状、照明などの条件が悪いとよく認識できないときがある。
特に蛍光灯による照明は鮮明な陰影をともわないこともあって、凹凸や微妙に湾曲する輪郭線が明瞭に捉えられない。
そんな時には手に取り、触れて確認すること、構造を経験的に把握することも必要である。
それらの経験がデザイナーの知識に組み込まれていく。
美しいか、美しくないか? 魅力的であるのか、ないのか?様々なカタチの特性を捉えることも・・・。
とはいえ、見ての判断は難しいことになる。それらが極めて個人的な感性的評価によるものであるからだ。
自身の絶対的な予備知識と確信ある予測力を持つて認識する能力を持ちたいもの・・・。
人間の眼は数センチから無限延までの全てを写し取る優れた機能と構造を持ち、脳が見えないものを読み解く連携の仕組みだ。
冒頭に「勇気をもって挑戦すれば一時的に足場を失う。
だが挑戦しなければ自分自身を失う」(キルケゴール)が引用されており、これは主人公メイ氏の生き方そのものなのだという。
「見る」ために未踏の領域へ。勇気さえあれば人は変わる。脳の無限の可能性を教えてくれる感動の実話」であると茂木健一郎氏も推奨する書だ。
(10.31/’09 記)
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