1900年初頭、車は電気自動車、蒸気自動車、そして、ガソリン自動車が分野を3分して開発されていた。
その後アメリカで石油が噴出し、その歴史は変わった。
人間の歴史はそんな偶然がつくるものでもある。
インダストリアルデザイナー レイモンド・ローウイが・・・・
日本の専売公社から依頼された「ピース」のパッケージ デザイン料として1万ドル(当時、1ドルは360円)を請求したと言う話は有名だ。
たかが、「タバコ包装の意匠」と考えていた担当者が一瞬の思考停止状態に落ちいつたあと、大いに慌てたであろうことは容易に想像できる。
その事は多かれ少なかれ、いまも折々に経験することだからだ。
しかし、鳩がオリーブの葉をくわえた新しいデザインは徐々にその効果を表し、3~4倍もの売り上げをあげた。
その結果にも驚いたことだろう。
その翌年にはレイモンド・ローウィの著書「口紅から機関車まで」が、実業家でその後政治家に転身した藤山愛一郎によって翻訳・出版された。
学生の私には、なぜ、あの政治家がデザイン書の翻訳を?と不思議な思いをもって読んでいたものだが・・・。
昭和26年に来日したロウーィは多くの実業家や政治家などに自らのデザインをプレゼンしていたのだ。
製品を大量販売する、その<デザインの効果>を特に強調したのだろうことも想像できることだ。
当時の我が国にとっては、何よりも国家の再建、外貨をいかに獲得するかという輸出振興が緊急の問題として提起されていたからだ。
後発国の常だろうが自主開発をするという発想はない。
今日の生活がかかっている、ということなのだ!
プレゼンを受けたものには「錦の御旗」に見えたに違いないデザインによる販売効果・・・。
以後の我が国のデザインは、その事を期待されるものとして企業に浸透していったことになる。
また同じことがアメリカの視察を終えた松下幸之助によってデザインの重要性をとなえ自社に意匠課を開設(昭和26年)した。
今日の『パナソニックデザイン社』だ。松下から社名を『パナソニック』と変えた企業本体の経営資源の一つとしてデザインを位置ずけ、新たな可能性を持って次代を目指している。
生産性本部が主催し豊口克平を団長に工業デザイン関係者による視察団もアメリカを視察したのもこの頃のことだ。
昭和31年「第1回の外人意匠家招聘による講習会」が・・・・
商工省・産業工芸試験所によって開催された。輸出振興を図るためにはデザインが重要だというアメリカに倣うものであり、経済行為としてのデザイン啓蒙と実践の始まりでもあった。
我が国の工業デザイン専門家のためのものであり、以後のデザインの振興を考えたものであったろう。
講師はアダムス アートセンタスクール校長、ジョージ・ネルソン、カイ・フランク、ブルース・アーチャーなど欧米の著名人を招請していた。
特に、第4回目の講師をつとめたイリノイ工科大学(IIT)のジェイ・ダブリン教授、デザイナーデーブ・チャップマンによる講習。はじめてみる見るデザイン用具、パステルや色鉛筆でのスケッチの技法、その製品デザインのプロセスなどによる講習会は手探りであった我が国のデザイン現場に手掛かりを与えてくれるものとなった。工業化社会への助走期、我が国の工業デザインが経済発展の中で機能した端緒となった。
IITはバウハウスの流れをくみ方法論によるアプローチを行うことで知られており、デザインに手掛かりを求める若者の共感を呼んでいたように思う。一方のアートセンターはスケッチの技法を通してスタイリッシュなカーデザインが眼を引くもので、アメリカに習う車関係のデザイナーがよく留学をしていた。
好奇心一杯の講習振りを聞き、本を読んでは羨ましく思ったものだった。
留学もままならない私、学生の多くは、その報告が掲載されている『工芸ニュース』誌を読み、イメージを膨らましながら自ら、繰り返し練習していたものだ。
そんな自己啓発の内容があった。
この講習会は14年間に14回の講習会を開催し、「目標を達成した」として終了した。
右肩上がりに発展する工業化社会の中でデザインもまたよく機能したものだと思っている。当然ながら商業主義に偏向しがちな企業の中でも、精一杯の良識に従った立場を意匠課はとっていたように思う。
全てを失って廃墟の闇市から、わが国の経済復興ははじまる・・・。
茫然自失の人々の荒んだ心にも純愛のラジオ・ドラマ 菊田一夫の「君の名は」の放送は胸をときめかせた乙女心を思い出させたものだろうか、そのブームが・・・。
昭和28年には CM が始まり、NHKがテレビ放送を開始するという時だった。
(その舞台となった数寄屋橋も今はなく記念碑だけが残されている・・・)
『昭和31年度 経済白書』には、「もはや戦後は終わった」と記述され、家庭生活の近代化が急がれる中で冷蔵庫」、「洗濯機」、「掃除機」が3種の神器と言われ飛ぶように売れた。その後、「白黒テレビ」が加わり、電化ブームはまさに少品種大量生産を保証する規格化、均質化、画一化など、生産性をあげるためのデザインとして、その可能性を手探る時代でもあった。
(2008/11・30 記)
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