「ワァ~、きれい・・・・・」
「これは何だ? どうしてこんなふうに見えるんだろうねぇ、面白い!」
「なにが描いてあるか分からないネ~、こっちは・・・」
銀座・三越を会場としているジミー大西の展覧会には、お年寄りのグループ、母親に手を引かれた男の子、若いカップルと様々な見学者が・・・。そんな幾組かの会話を聞きながら私も同じ思いで見ていた。それらの絵の前に立つと「どうしてこうなるんだ!」と思わず唸る・・・。多分、同じものを見ているに違いないのだが、しかし、ここに描かれているものは違う・・・。「なぜこんな風になるんだろう・・・」と。
見る多くの人が、そのことに驚いているのだ。素の状態。思うがままの表現なのだろう。
「夢のかけら?」となるもの・・・。
個体としてもつ興味の対象、好奇の眼に映る、その特異な対象部分が大脳に強く残るもの・・・。
その断片、黒い線で縁取られたそれらの形は作家の直感的なイメージに任せて自在にくっつきあった塊りとなって白いキヤンパスを埋め尽くしている。
その縁取られた線、内・外側の余白部分はチューブから絞り出した色で丁寧に塗りこめる。対象のもつ色合いに囚われることもなく選び取った色、その組み合わせがまた、ユニークなのだ。感じたままに組み合わされた形や色の断片は、常識を底辺におく人々の理解を超えるものとなるのだろう。
画家になると言う意識もないままにタレントを目指した。ものを見る眼、キャンバスを埋める技法も無い中での表現はまさに本能。自在にして奔放、それらの約束事にとらわれることもない表現は個性としてとらえられるもの・・・。
あの岡本太郎が絶賛したのだとか・・・。
ピカソのようだと周辺でも囃したのだろう・・・。4年後、1996年には画業に集中するために憧れのピカソの国、スペインへと遊学する。
あの奇才、異端の建築家とも言われるガウデイのサグラダフアミリア聖堂やアパート建築、タイルのかけらを張り詰めたガウデイパークにも触発されたに違いない。それらの手法はそのまま感性を触発された絵や遊具だろう立体物となっている。そんな写真もあった。
「いつもいろんな刺激が欲しいから。気分によって、それはヨーロッパの歴史的な建築物だったり、アフリカの大自然だったり。その場に身を置いて、見たり、感じたことを作品に注ぎ込んでいくのが僕のスタイル」「『ジミー大西 夢のかけら展』、色彩の渦と創造の軌跡」の読売新聞の取材にそう答えている。
そんな特異な才能に恵まれたものは極めて希だろう・・・
大部分は幼い頃の才能を認められることで、意識した生き方を目指し、それらの建築学校や美術学校などで学んでいることだ。あの天才と言われ、奇才ともいわれるガウデイやピカソにしても例外ではない・・・。
教育の中でもデザイン、特にインダストリアルデザインの場合はただ奔放で、我流という訳には行かない。確りと対象を捉える眼が訓練され、表現するスキルが体得されねばならないからだ。志すもの、その多くはそれまでの成長過程で培った資質を含め、十分ではないが経験を持って人より優れ、また異なる個性を持っているのだと自覚する。
私たちの眼は常に「何か」を見ている。紛れもなくその眼は何かを見ているはずなのだ・・・。
しかし、後で思い返してみると余りはっきりしないという事が多い!
関心も無く漠然としたものの見方でしかなかったということなのだ。
つまり、意識した見かたをしないと、記憶に残るものにならないと言うことなのだ。「カタチ」を捉え、「意味」を捉える意識をもつことで対象を捉えることが重要なのである。
ただ、「みる」ということが眼で捉える対象、視覚的なもののことだけを意味しているわけではないのだ。
デザインが見る対象は「人の生き方」や「欲望」,「考え方」に関わる。
そんな本質的なものであり、時代を捉えることをも意味する。
人間としての感受性、世界観や人生観ともなるもので、実はそのことで特異性を持った個性にも繋がるものでもある。
幼児期には夢中だった日々の発見!見るものの全てに好奇心一杯だった。
ありのままの対象を見る、好奇心を持って見ることから始まったのだ。
その発見と感動!それは個人の感性を創り、個性を創りあげるものでもある。その繰り返しの中で観察する心が育まれ、対象を確りと見る眼が出来る。
雑学的な好奇心にはじまる動機だが、創造(想像)力は徐々に備わっていくものである。
ただ、教育と言うある種の規制によって失われていくとも言われる創造力。「他に無い」、「常識を突き抜ける」という独創にはなり難いということもある・・・。
(2008・9・30 記)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追伸:
絵を描くことに没頭する主人公・・・。
世間の評価や成功を得ることもないままにひたすら絵を描き続ける「男」を通して、「幸せの意味を問いかける」映画が公開されている。
「アキレスと亀」、14作目だという北野武監督の作品だ。
心から打ち込める芸術との出合、ひたすらその「なにか?」を求めている芸術家をまじかに見ることで、その「幸せ」を理想として描きたかったものだろうか。
監督として世界に評価されてもいる北野武もまた天才としての破天荒で囚われない発想力を見せているようだ。
その映画作品も、また我流であり常識を超えた奔放さなのだ。
劇中に登場する絵、70点余は北野武監督自身の作だという話にも驚いた。
しかし、独善的で、独り善がりであることは映画でも許されないことだろう。
評論家は兎も角、多くの人々の共感を得ることは出来なかったのだとか・・・。
彼我の差や多くの価値観を知る事も必要で、監督としての独自性は、多くを知るという知力に裏ずけられた発想であり、芸術家としての独善性ではない。そこを誤解してはならないのだ。
その反省があっての今回の作品なのだとも・・・。