はじめてのセミナーから28年。我が国における技術革新、生活環境はこれまでに無い変容。
、その長い歴史から人のへの急激な移行。
電脳的情報空間が生まれる、その過中にあることであった。
そんな中で、生まれ育ったことになる学生も、また変化の産物?新人類でも有る。
生活環境にある様々なメデア、家庭、小、中学、高校教育、予備校教育などの影響を受けて成長し、今ここに集う。
その変容を理解し比較できる訳ではないが、それらを十分享受し、快適に生きている様に見える。
テーマを認識するための情報収集・分析。セミナー前の1週間の調査、分析、そしてチャートのグループ単位の共同制作・活動。
キーワードに関する情報収集・分析の間には、を十分に理解し、セミナー時のを探り、してみることも。そのこともまた重要な能力の訓練でもあるからだ。
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「デザインは、『形と色』を決めるだけではない」と言う。その通り、だろう・・・。
しかし、「デザインは『形と色』を決めることではない」と、すり変わってしまった意見まで現れると、おかしいことに・・・。
「スケッチなど、単なる表示や伝達の手段、コンピュータで出来る」という意見は短絡過ぎる!
確かに、コンピュータによる表現や表示に関わる効率は極めていい。
何よりも写真?の様な現実感、自在な可動位置からの確認、検討が出来る。色彩もワンタッチの変換・・・。かっては考えられなかったことでもある。
ただ、検討し、判断出来るか?は問題なのだ。CGによる画像には、無機的ながらリアリテイを感じる。しかし、それも、限界があることも知るべきだろう・・・。
何よりもを持たない者による表現は当然、限定的である。
個性が失われ、物の表情が能面のように画一化している。
人の感性を失ったが生み出される危機感をすら感じるのだ・・・。
それよりも能力の開発途上、何よりも学ぶ過程は省力化し、効率化してはいけないのだ!
教育は効果を得る事を考えても効率的に、能率的に学ぶだけのものではない。
何よりも、《学ぶ目的》、《学ぶ意欲》を持ち、自ら《思考する意思》を持たなければならない。
特にデザインという《革新性》を目指すアプローチには、全身で感じ取る多くの《試行錯誤》が何よりも重要なのである。
失敗をしないための《綿密な心》、《集中力》が要求される。
その為に大いに失敗をする。《失敗のショック》が大脳に与える刺激が、《綿密な心》を育て、若い《感性》を涵養するからだ。演習も、セミナーも、その《試みの場》として望んでもらいたい。
繰り返すが、《試みる》ことは《失敗》を重ね学ぶことであり、大きく成長することでもある。
プロとは――最適なカタチを創るヒト・・・
要求される様々な条件を咀嚼し反映させる。
最適な「形」として具現化し得るのはデザイナーである。
生活の快適性を求め、製品環境の適正を熟考して生まれる「モノ」の「形の最適」を決め得る能力はデザイナーのもの、誰でもが出来る事ではない。
デザイナーのプロとして、そう自負したいものだ!
例えば野球やサッカーなど子供でも投げ、蹴ることが出来る。しかし、プロとの違いは何かを考えてみるといい・・・。
正確さ、確実さ、その運動量の差を比べるまでも無いことだろう。
突進してくる相手を巧みに交わし、ここしかないと言うゴールポストの一角に蹴り込む。
人々は、その技に感動する・・・。
ただ、その、たった1つの《技》を得るために、どれほどの練習をしたのだろうか?
私には想像もつかない話しだ!
毎日毎日、多分、氣が遠くなるような練習に耐え、酷使する肉体の痛みに耐える・・・。
だからこそ、我々に感動を与えるのだ。尊敬もされる。
そんな《過酷な練習に耐え》、《結果を生み出す》からこそプロと言われる。
例えば、誰でもが詩を創り曲を組み合わせて歌を創る。しかし、だからと言ってそれが人々に感動を与え、喜びを与えるもの、とはならない・・・。
幼児も老人も絵を楽しみ、描く事が出来る。本立てや、机くらい誰だって作ってしまう。
新製品のデザインを依頼したいが金が掛かる。だったら自分で、と我流でデザインする社長も多いと聞く。
など、など誰でもが出来る。そう思う人も多い。デザインはそう思わせるものなのだろうか?
「とんでも無いこと。形はこうでなければいけないのです」と。そう、いい切るデザイナーが何人いるのだろうか?
そんな《自信》と《自負心》をデザイナーは持つているのだろうか?
いや、持って欲しいものである。
しかし、《自負し確信》を持ったものは少なく、センスが疑わしいものも多いのも事実だろう・・・。
デザイナーとしての適性のいかが問われる、その数が多いのも我が国の特徴だろうか。
「カタチ」に責任をもつデザイナーであれば、単に「思いつき」や「面白い形」を創れば良いという事でもない。
はモノとして存在する物体の最終の《姿》である。
生活の場に具現化され、《機能するモノ》としての適正が要求されるものでもある。
それ故に、最適であることの「確かさ」や「科学性」が要求されるのだ。
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「コンセプト」も、「画期的な技術」も、適切な「意味ある美しいカタチ」にまとめ上げる。時には「楽しく」、「嬉しく」、「便利に」なる様な・・・。
そこに、デザイナーが居なければならない。
優れたデザインは、人々を「感動させ」、「生活に歓びを与える」ものなのだ・・・。
《形や色》はその究極の表現素材でもある。
デザインとして余り意味があることではないと云う美意識が無い関係者も多い。
殺伐とした「モノ」環境にも関心が無いという事だろうか?
これは問題である。タテマエ論だけでは有能なデザイナーは育たないだろう。
我々の豊かな生活環境を創る事はデザイン目標の最も大きい意味でもあるからだ。
その事は、実は人の「生き方」、「心との関わり」に極めて重要な意味を持つことでもある。
ただ、最近は内向きの、のデザインをしたがる者、デザイナーが多いことが気になる。
成熟した生活、製品環境。ブラックボックス化した高度な製品群の増加。
巨大マーケットに供給する為の資金の投下は巨額・・・。
当然、より確実性を求められ、デザインの普遍性を強く求められることになるのだ。
顔の見えない不特定多数者に向かう不安。数値として捉えることの複雑さを嫌い、短絡なカタチで自己満足することになる。
求めたデザインの安易さは、美意識の無いデザインと同様に空しい。
デザインは高度のパズル?
だから、楽しく挑戦してみよう!
自らの《明白な目的意識》、その自覚は苦しさに耐へ、喜びをすら感ずるものとなる。
厳しい自己研鑽、試練に耐えたことが、自らの《自信》と《自負心》をつくる。
それがデザイナーとして、プロトしての資格ともなるものである。
いま、プロとしてのデザイナーが求められ、活動が期待されている!
僅かに80時間・・・。セミナーはそんな問題意識をも持って挑戦を試みる場にして欲しいのだ!
このセミナーの精神を汲んで多くの人材が巣立っている・・・。
(2003/6.1 記)