ところで、世界の知識層では、美術や音楽といった芸術を理解できないようでは「人間の本質を理解出来ない!」と、考えられているようだ。
「芸術は科学ほど必要ではないか?」という問題は、2011年フランスの「バカロレアの哲学試験問題」。「バカロレア」とは、高校修了を証明する国による卒業試験なのだ。つまり、フランスの大学生は、入学時には既に、日常的なさまざまな概念について学んでおり、特にプラトン、アリストテレス、デカルト、パスカル、カント、へーゲル、ショーペンハウアーなどなどと言う5~60名もの哲学者の著書から学び、考えてもいると言うことになる。
フランスに限らない、国際的な「バカロレア」は、世界の大学入学資格に使えるが、それよりも世界に通用する「思考力」や「表現力」、「コミュニケーション力」などが身につくことに意味があるのだと。(「世界のトップスクールが実践する考える力の磨き方」福原正大 大和書房より) つまり、大学で学ぶに必要な「基礎力」や個人の「スキル」は既に高校時代に学び考えていると言うことになる。我が国でも「自分を知り、自分の考えをもつ」ためにも必要なことだろう。選挙権を持ち、未来を担う社会人としての自覚!そして、なによりも新しい変化にも動じない「デザイン脳力」を持つために・・・。
●「世界は水玉でできている・・・・」
「遠い宇宙から見れば、人も、星も、地球も、太陽も、水玉に過ぎないのだ。
生まれ育った山深い信州で、私は生涯のテーマ水玉と出会った。
家の裏の河原、一面に広がる無数の小石。
真夏の陽光をたたえ、一つ一つ確認することが出来る小石の集まりを眺めながら、私の中に水玉のモチーフが浮かんだのだった。
それからずっと、水玉を愛し、描き続けている。」(中略)
「いま私の展覧会は、世界を巡回しているところだ。9月まではスペインはマドリッドのソフイア王妃芸術センターで。それからパリのポンピドーセンター、ロンドン、ステイトモダーン、そしてニュウヨークのホイットニー美術館を来年にかけて回る・・・。
世界が水玉で満たされてゆく。世界中の人に、水玉になってみて考えてほしい。
一つの水玉として立ち上がって欲しい。結束しあうのはいまなのだから。
千何億の水玉よ。肩を寄せ合って手をつないで未来を生きていこう。」
                    (前衛画家 草間彌生「水玉宣言」)
思い立って廃棄している資料、新聞雑誌の切り抜きなど数年、時には数十年前のものもあって懐かしく、ついつい読んでしまう。なかなか、はかどらないものだ!
今回も、ついつい手にしてしまった1枚は草間さんの誌片・・・。
種苗業を営む松本の旧家に生れ、幼い頃からスケッチなどには親しむ環境に恵まれていたようだ。身近にある草花は、その対象ではあったが、同時に幻視、幻覚によって異常を見る存在でもあり、自己と融合するものでもあったようだ。それは草間自身が統合失調症を病んでおり、繰り返し襲いかかってくる幻覚・幻聴から逃れるために描きとめたドローイングは、1日数十枚にも・・・。
草間作品の生涯のテーマになった水玉のモチーフは、その病に起因するもの、彼女自身が捉える幻覚、幻聴からの脳内のイメージを表現するためにキャンバスの全面に水玉で埋め尽くしたのだと言われている。現存する彼女の絵には画面を水玉で埋めた5歳時の絵があった。幻覚に対峙する無心の儀式でもあったものだろうか。ある種の幻覚や妄想が彼女の絵であり、感性となってユニークな作品を次々に生み出すエネルギーにもなっているようだ。人間にとっての脳力、その感受性の差異は、人それぞれに多様ではあるもの。それが、音楽や美術などという自己表現力の可能性に目覚め、取り組むことで才能は開花することになる。前衛芸術としてのそれらは見る者を感動させて、常人では見ることが出来ない幻想と現実が、渾然一体となった壮大なスケールの草間ワールドを現出させている。エネルギッシュな創作!発想のイメージは88年間の蓄積だろうか、連綿とした網の広がりに・・・。 
‵17年には『草間彌生 わが永遠の魂』(国立新美術館で開催)‵16年文化勲章受章
●『サントリー オールフリーpresents BOUM! BOUM! BOUM!香取慎吾 日本初個展』
        ‵19年3月15日(金)~6月16日(日)IHIステージアラウンド東京
タレントの香取慎吾さんの日本での初めて個展を開催するのだと言う、興味深い。会場は客席が360°回転する「IHIステージアラウンド東京」。これまでに例のない劇場空間での試みだと言うのだが・・・。画風は「ピカソ」に例えられているのだとか。しかし、どちらかと言えば岡本太郎風・・・?ネット時代らしい様々な評価があるらしい・・・。
「正直言うと、これくらいなら俺でも描ける!」と。「単なる落書き」「絵が下手すぎる!」などというネット社会らしい批判。「これ、香取らしいのでは・・・」と、「純粋さが感じられる」という、ファンの好意ある意見も多いのだとか。
父は画商。幼ない時から絵を描くのが好きだった、と。「画家になる!」と、言うにはおこがましいと謙遜するのだが・・・。美術を専門的に学んではいない。素朴さは見えるが、それが問題になる時代ではない。
「こんなに無秩序で暴力的で、この狂気はどこからくるんだろう?やっぱり香取さんが今まで体で表現をしてこられたことが、この絵にも表れているんでしょうね」と絶賛するグラフィックデザイナーで画家でもある横尾忠則氏。その横尾氏、幼少期に、さまざまな超常現象を経験、死の世界に憧れを抱く。「ピカソの芸術と人生に吸収されるように意識の統合が起こり始め、自己の想いや感情に忠実に従う無垢さと正直さに自分自身の欺瞞性。あるいは心のガードの固さをいやというほど見せつけられるとともに言いようのない解放感に恍惚とした」という。その後に画家を宣言!
人間は生まれながらに絵画的成分は持っているもの、多様な才能を持つてもいる。伝統的な見方、これまでの評価基準の全てを否定する前衛芸術、「自分」を表現するものに・・・。偶然の興味が画家とデザイナに分け、新しい絵が生れ、多領域のデザインがうまれる! 
岡本太郎は著書、「今日の芸術」の中で「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」と、宣言している。私たちが習い、そう思い込んでいた常識の真逆だ!
●その岡本が最も影響を受けたと言うピカソ。その、ピカソが数ヶ月もアトリエに籠り、100枚ものデッサンを重ねた末に描き上げた野心作を友人達に披露したときだ。
友人たちは一瞬、息をのみ無言に!やがて、「なんだこりゃー、冗談だろー」と口々に叫び、「ふざけんな!」と怒るマティス・・・。大仰に両の手を振り上げての騒ぎに泣きき出す者までも・・・。そんな怒号には、さすがのピカソもショックを受けたらしい。作品を人目につかぬアトリエの隅に数年間も押し込めてしまったのだと言う。しかし、物議を醸したこの作品こそ、20世紀美術・キユビズムの原動力となった「アビニヨンの娘たち」だった!見慣れないものに対す人々の拒否反応は、しかし、徐々に解るようにはなるものだ。前衛画家の多くは「絵は自分に正直でありたいと考えている」ようだ。「自分に見えたものを描き、心を反映させる」と、異口同音に。

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